ミステリーとしての読みどころ
ロンドンの出版社の机に、一篇の原稿が届きます。看板作家の最新長編で、中身は1955年の英国の村を舞台にした、いかにもクラシックな謎解きミステリ。
その原稿の中では名探偵が屋敷の死を追い、原稿の外では、読み終えた編集者自身が答えの出ない問いを抱えることになります。『カササギ殺人事件』が差し出すのは、1955年の村と現代のロンドン、二つの舞台にそれぞれ立ち上がる二つの謎。
どちらか一方が飾り、ということはありません。
著者について
著者のアンソニー・ホロヴィッツは1955年生まれ、イギリスを代表する作家です。ヤングアダルト作品〈女王陛下の少年スパイ! アレックス〉シリーズがベストセラーとなり、人気テレビドラマ『刑事フォイル』では脚本を担当。
コナン・ドイル財団公認のシャーロック・ホームズ新作長編『シャーロック・ホームズ 絹の家』、イアン・フレミング財団公認のジェームズ・ボンド続編と、古典が生んだ名探偵や英雄を任され続けてきた書き手でもあります。近年は名探偵ホーソーンが活躍する『メインテーマは殺人』『その裁きは死』のシリーズでも年末ミステリランキングを完全制覇。
古典への目配りと現代エンタメの設計力を、両手に握っている作家と言っていいでしょう。
本作はその彼が「アガサ・クリスティへの愛」を正面から掲げた長編で、原書 Magpie Murders は2016年に刊行されました。邦訳は2018年、東京創元社の創元推理文庫から山田蘭訳で上下分冊。
『このミステリーがすごい!』海外編、〈週刊文春〉ミステリーベスト10海外部門、『本格ミステリ・ベスト10』海外篇、2019年本屋大賞〈翻訳小説部門〉、翻訳ミステリー大賞——その年の年末ミステリ・ランキングを軒並み1位でさらい、史上初の7冠と謳われた話題作です。
物語の入り口
物語は、出版社に勤める編集者スーザン・ライランドのもとに、看板作家アラン・コンウェイの最新長編『カササギ殺人事件』の原稿が届くところから動き出します。看板作家の新作となれば、ページをめくる手にも自然と力がこもるというもの。
彼女は腰を据えて読み始め、読者もまた、その肩越しに刷り上がる前の一篇へと入っていきます。
原稿の中身は、こうです。1955年7月、サマセット州にあるパイ屋敷の家政婦の葬儀が、しめやかに執りおこなわれた。
鍵のかかった屋敷の階段の下で倒れていた彼女は、掃除機のコードに足を引っかけたのか、あるいは。事故と片づけてしまえばそれで終わる死。
けれどもその小さな影は、静かなサクスビー・オン・エイヴォン村の人間関係に、少しずつひびを入れていきます。そこへゆっくりと足を運ぶのが、余命わずかな名探偵アティカス・ピュント。
閉じた共同体、ひとりずつ顔をのぞかせる容疑者、そこかしこに置かれた手がかり——英国村落本格のお約束をまるごと踏んだ謎解きが、丁寧に立ち上がっていきます。
ところが、原稿の外側もまた静かではないのです。結末部分まで読み進めたスーザンは、あまりのことに激怒します。
ミステリを読んでいて、こんなに腹立たしいことがあるだろうか、と。しかも彼女は、その原因を突きとめることができません。
憤りを募らせる彼女を待っていたのは、予想もしない事態。原稿を読む日々として始まった現代のパートは、ここから彼女自身が答えを探して動きだす物語へと変わっていきます。
読者は、机の上の原稿と、その原稿を抱えた編集者の困惑を同時に預かる位置に座らされたまま、二つの時間を行き来することになるのです。
読みどころ
読みどころは、まず何より、作中作の本格としての完成度にあります。 アティカス・ピュント篇は、メインの物語を引き立てる小道具という枠に収まらず、それ単体で一級の英国村落本格として堂々と立っています。
閉じた村、限られた登場人物、丁寧に配された手がかり。古典の様式美が真正面から踏襲されていて、クリスティを読み込んできた読者ほど、この手触りに顔がほころぶはず。
オマージュという言葉が軽く聞こえないだけの、地に足のついた作りなのです。
そのうえで本作は、1955年の村の格調と、現代ロンドンの出版業界の軽やかさという、まったく質感の異なる二つの声を一冊のなかに同居させています。落差のある語りを、どちらも痩せさせずに織り上げてみせた手腕。
翻訳ミステリの主要ランキングを席巻した理由は、読み終えたあとに深く納得できます。
こんな人におすすめ
相性についても正直に。クリスティが好きな方、英国ミステリの落ち着いた空気が好きな方、現代作家による古典本格の継承に関心のある方には、まっすぐ届く一冊です。
週末の予定を空けて、じっくり謎解きに浸かりたい夜にこそ似合います。逆に、短い時間でさっと読み切れる軽量の一編を探している向きには、上下2冊というボリュームが少し腰の重いものに映るかもしれません。
ただ、その厚みは物語の作りに見合ったもので、時間を預けるだけの手応えは十分にあります。
手に取るなら
入手は創元推理文庫版(山田蘭訳)で、上下分冊。古典本格の格調と現代英米ミステリの軽妙さ、その落差を日本語の側でも違和感なくつなぎ直した訳文で、作品の作りをフルに味わえます。
下巻には川出正樹の解説付き。Kindle版・Audible版もそろっています。
続編には、スーザン・ライランドが再び活躍する『ヨルガオ殺人事件』(原書 Moonflower Murders、2020年刊。邦訳2021年)があり、こちらは米国でテレビドラマ化もされました。現代の書き手が古典本格へ捧げた、愛のこもった代表作。
最初の一冊として、これ以上ないほど堂々とおすすめできます。