読者の前にある。
カササギ殺人事件
編集者の手元に届いた一篇の本格原稿。クリスティの末裔と呼ばれる現代英米メタ本格の到達点。
ロンドンの出版社の机に、一篇の原稿が届きます。看板作家の最新長編で、中身は1955年の英国の村を舞台にした、いかにもクラシックな謎解きミステリ。
その原稿の中では名探偵が屋敷の死を追い、原稿の外では、読み終えた編集者自身が答えの出ない問いを抱えることになります。『カササギ殺人事件』が差し出すのは、1955年の村と現代のロンドン、二つの舞台にそれぞれ立ち上がる二つの謎。
どちらか一方が飾り、ということはありません。
物語の入り口
物語は、出版社に勤める編集者スーザン・ライランドのもとに、看板作家アラン・コンウェイの最新長編『カササギ殺人事件』の原稿が届くところから動き出します。看板作家の新作となれば、ページをめくる手にも自然と力がこもるというもの。
彼女は腰を据えて読み始め、読者もまた、その肩越しに刷り上がる前の一篇へと入っていきます。
原稿の中身は、こうです。1955年7月、サマセット州にあるパイ屋敷の家政婦の葬儀が、しめやかに執りおこなわれた。
鍵のかかった屋敷の階段の下で倒れていた彼女は、掃除機のコードに足を引っかけたのか、あるいは。事故と片づけてしまえばそれで終わる死。
けれどもその小さな影は、静かなサクスビー・オン・エイヴォン村の人間関係に、少しずつひびを入れていきます。そこへゆっくりと足を運ぶのが、余命わずかな名探偵アティカス・ピュント。
閉じた共同体、ひとりずつ顔をのぞかせる容疑者、そこかしこに置かれた手がかり——英国村落本格のお約束をまるごと踏んだ謎解きが、丁寧に立ち上がっていきます。
ところが、原稿の外側もまた静かではないのです。結末部分まで読み進めたスーザンは、あまりのことに激怒します。
ミステリを読んでいて、こんなに腹立たしいことがあるだろうか、と。しかも彼女は、その原因を突きとめることができません。
憤りを募らせる彼女を待っていたのは、予想もしない事態。原稿を読む日々として始まった現代のパートは、ここから彼女自身が答えを探して動きだす物語へと変わっていきます。
読者は、机の上の原稿と、その原稿を抱えた編集者の困惑を同時に預かる位置に座らされたまま、二つの時間を行き来することになるのです。
読みどころ
読みどころは、まず何より、作中作の本格としての完成度にあります。 アティカス・ピュント篇は、メインの物語を引き立てる小道具という枠に収まらず、それ単体で一級の英国村落本格として堂々と立っています。
閉じた村、限られた登場人物、丁寧に配された手がかり。古典の様式美が真正面から踏襲されていて、クリスティを読み込んできた読者ほど、この手触りに顔がほころぶはず。
オマージュという言葉が軽く聞こえないだけの、地に足のついた作りなのです。
そのうえで本作は、1955年の村の格調と、現代ロンドンの出版業界の軽やかさという、まったく質感の異なる二つの声を一冊のなかに同居させています。落差のある語りを、どちらも痩せさせずに織り上げてみせた手腕。
翻訳ミステリの主要ランキングを席巻した理由は、読み終えたあとに深く納得できます。
こんな人におすすめ
相性についても正直に。クリスティが好きな方、英国ミステリの落ち着いた空気が好きな方、現代作家による古典本格の継承に関心のある方には、まっすぐ届く一冊です。
週末の予定を空けて、じっくり謎解きに浸かりたい夜にこそ似合います。逆に、短い時間でさっと読み切れる軽量の一編を探している向きには、上下2冊というボリュームが少し腰の重いものに映るかもしれません。
ただ、その厚みは物語の作りに見合ったもので、時間を預けるだけの手応えは十分にあります。
作品の背景
本作はアンソニー・ホロヴィッツが「アガサ・クリスティへの愛」を正面から掲げた長編で、原書 Magpie Murders は2016年に刊行されました。邦訳は2018年、東京創元社の創元推理文庫から山田蘭訳で上下分冊。
『このミステリーがすごい!』海外編、〈週刊文春〉ミステリーベスト10海外部門、『本格ミステリ・ベスト10』海外篇、2019年本屋大賞〈翻訳小説部門〉、翻訳ミステリー大賞——その年の年末ミステリ・ランキングを軒並み1位でさらい、史上初の7冠と謳われた話題作です。
手に取るなら
入手は創元推理文庫版(山田蘭訳)で、上下分冊。古典本格の格調と現代英米ミステリの軽妙さ、その落差を日本語の側でも違和感なくつなぎ直した訳文で、作品の作りをフルに味わえます。
下巻には川出正樹の解説付き。Kindle版・Audible版もそろっています。
続編には、スーザン・ライランドが再び活躍する『ヨルガオ殺人事件』(原書 Moonflower Murders、2020年刊。邦訳2021年)があり、こちらは米国でテレビドラマ化もされました。現代の書き手が古典本格へ捧げた、愛のこもった代表作。
最初の一冊として、これ以上ないほど堂々とおすすめできます。
アンソニー・ホロヴィッツについて
アンソニー・ホロヴィッツは1955年生まれのイギリスの作家・脚本家です。少年スパイを主人公にしたヤングアダルト小説〈女王陛下の少年スパイ! アレックス〉シリーズをベストセラーに育てました。
テレビでは『名探偵ポワロ』や『バーナビー警部』の脚本を書き、『刑事フォイル』では企画から脚本までを担っています。
2011年にはコナン・ドイル財団の公認を得てホームズ物の新作長編『シャーロック・ホームズ 絹の家』を発表し、2015年からはイアン・フレミング財団の依頼でジェームズ・ボンドの新作も手がけました。自前の探偵を立てた本格ミステリでは、『カササギ殺人事件』に始まるシリーズと、作者自身が語り手として登場する〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズを書き継いでいます。
日本では2018年から4年続けて主要な年末ミステリランキングの1位を占めました。2022年には大英帝国勲章(CBE)を受けました。
書誌情報
アンソニー・ホロヴィッツをもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本
この本が登場する特集
どんでん返しミステリー小説ランキング ―二度読み必至、前提が最後に崩れる海外の名作14冊を順位付きで
信じていた前提が最後にひっくり返る海外ミステリーの名作14冊を、順位付きで紹介。本格の骨格に構造的サプライズを組み込んだ、再読必至の作品だけを厳選し、仕掛けには一切触れずに案内します。
アンソニー・ホロヴィッツ 全作品と読む順番 ―『カササギ殺人事件』から始める現代本格ガイド
『カササギ殺人事件』で知られる現代英国ミステリの第一人者。あらすじ・読みどころ・読む順番を全作ガイド。どれから読むか迷う人へ、管理人が実読して厳選しました。
週末が溶ける一気読み長編ミステリ ―読み始めたら止まらない11選
読み始めたら止まらない。次のページをめくる手が勝手に動く——休日をまるごと溶かす覚悟で挑みたい、引き込み力の強い長編ミステリを集めました。
本のなかに本がある 作中作・メタ本格 ―物語の枠組みで遊ぶ傑作ミステリ
本のなかの本、探偵小説についての探偵小説。物語の「枠組み」そのものを仕掛けに変えるメタ本格・作中作ミステリの傑作を、古典から現代まで集めました。
イヤミスに疲れた人へ 後味のいい本格 ―安心して読める、読後感のいいミステリの名作
胸が悪くなる「イヤミス」はもう疲れた。そんな人へ、読後感の良い本格ミステリを厳選。ユーモア、温かさ、知的興奮——読み終えて気持ちのいい一冊を集めました。
迷ったらこの5冊 ミステリー入門 ―初心者におすすめ、何から読むかの答え
ミステリーを読んでみたいけれど、何から手に取ればいい? そんな初心者のために、間違いのない「最初の一冊」を、古典から現代まで厳選して案内します。
現代海外ミステリの最高傑作10選 ―ホロヴィッツ、ディーヴァー、デクスターほか黄金期以後の名作
黄金期より後の現代海外ミステリの最高傑作を、当サイト管理人が10冊選びました。ホロヴィッツ、タートン、ディーヴァー、デクスター、クレイヴンからハレットまで。いま読むべき現代の...