ある本に書いてある。
ヨルガオ殺人事件
カササギ続編。サフォークのホテルで起きた8年前の事件と作中作の謎が再び並走する二重構造本格。
一冊の推理小説を読み返した女性が「8年前の殺人の真相はこの本の中にある」と言い残し、そのまま姿を消してしまう。残された手がかりは、彼女が読んでいたその小説そのもの。
『ヨルガオ殺人事件』は、現実の事件の答えがフィクションの行間に潜んでいるかもしれない、という奇妙な誘惑から動き出す長編ミステリーです。名探偵が活躍する作中作と、それを読み解こうとする現代の物語。
二つの層が並んで進んでいく仕掛けを、アンソニー・ホロヴィッツが二度目の挑戦として練り上げました。
物語の入り口
物語の主人公は、前作にも登場した元編集者スーザン・ライランドです。ロンドンでの編集者生活に区切りをつけた彼女は、婚約者アンドレアスとともにギリシャのクレタ島へ渡り、小さなホテルを営んでいます。
日々の切り盛りに追われ、経営は決して楽ではない——そんな彼女のもとを、はるばる英国から訪ねてきたのが、裕福なトレハーン夫妻でした。
夫妻が経営するのは、英国サフォーク州の田園に建つカントリーハウス・ホテル「ブランロー・ホール」。この屋敷では8年前、宿泊客のフランク・パリスが殺害される事件が起きています。
従業員のステファン・コドレスクが逮捕・有罪となり、事件はとうに決着したはずでした。ところが最近になって、夫妻の娘セシリーが、ある一冊の推理小説を読み返した直後に「あの事件の真相はこの本の中にある」と両親に告げ、その言葉を残したまま行方を絶ってしまったというのです。
問題の一冊とは、いまは亡き作家アラン・コンウェイが書いた〈アティカス・ピュント〉シリーズの長編でした。名探偵ピュントが難事件に挑む、古典本格の趣きをまとった作中作です。
そしてこのシリーズをかつて担当していた編集者こそ、ほかならぬスーザンでした。娘が読み解いたはずの手がかりを、その本の中から見つけ出してほしい——夫妻はそう彼女に懇願します。
こうしてスーザンは、コンウェイの小説を再読しながらブランロー・ホールへ足を運び、関係者の証言と作中作の細部を一つずつ突き合わせていくことになります。地中海の陽光あふれるクレタ島から、霧のかかった英国サフォークの田園へ。
読者は彼女の肩越しに、現実の失踪事件と一冊のミステリー小説という二つのテキストを同時に読み進めていく、奇妙な二重の読書へと誘い込まれます。
読みどころ
本書の骨格は、「現代の捜査」と「作中作の事件」が並走するメタ二重構造にあります。 読者は一冊を読むあいだに、実質もう一冊分の本格ミステリを丸ごと読むことになる——この構成そのものが、シリーズ最大の趣向です。
Kirkus Reviews は本書を「精緻に組み上げられた入れ子構造のフーダニット」と評しており、二つの層を噛み合わせていく設計の緻密さは、前作のファンの期待を裏切りません。名探偵ものの様式美と、現代のリアルな捜査劇。
読み口の異なる二つのミステリーが一冊に同居し、片方を読む目でもう片方を照らし返しながら進んでいく感覚は、この形式でしか味わえないものです。
たっぷりとした分量を、腰を据えて味わうタイプの長編です。手早く一気に読み切れる軽量なサスペンスを求める向きには、上下巻の厚みと、作中作を丁寧に読み込んでいく構成が、やや悠長に映るかもしれません。
逆に、伏線を張りめぐらせた本格の仕掛けにじっくり付き合いたい読者、名探偵が活躍する古典の様式が好きな読者にとっては、これ以上ないごちそうでしょう。週末の予定を空けて、一冊で二篇分の謎解きにまるごと沈み込む。
そんな読書に静かに応えてくれる一作です。
作品の背景
本書は、アガサ・クリスティへのオマージュとして書かれた前作『カササギ殺人事件』の続編、元編集者スーザン・ライランドを主人公とするシリーズの第2作にあたります。原題は『Moonflower Murders』、原書は2020年の刊行。
日本では東京創元社の創元推理文庫から、山田蘭訳で2021年に上下分冊として届けられました。刊行後は〈このミステリーがすごい!〉〈週刊文春〉〈本格ミステリ・ベスト10〉の各海外部門で年末ランキング第1位に輝き、前作の熱をそのまま受け継ぐ評価を集めています。
手に取るなら
入手は東京創元社の創元推理文庫版(山田蘭訳)で。山田蘭はホロヴィッツ作品の多くを手がけてきた訳者で、古典本格の格調と現代英米ミステリの軽やかさを、日本語で破綻なくつないでいます。
Kindle版・Audible版もそろっており、本作は2024年にBBC/Masterpieceで全6話のドラマ(脚本はホロヴィッツ自身)にもなりました。まずは文字で二重構造をたっぷり味わってから、映像に進むのがおすすめです。
前作『カササギ殺人事件』から本書へ進むのが自然な流れですが、一篇の長編本格ミステリとして、本書単独でも十分に楽しめます。
アンソニー・ホロヴィッツについて
アンソニー・ホロヴィッツは1955年生まれのイギリスの作家・脚本家です。少年スパイを主人公にしたヤングアダルト小説〈女王陛下の少年スパイ! アレックス〉シリーズをベストセラーに育てました。
テレビでは『名探偵ポワロ』や『バーナビー警部』の脚本を書き、『刑事フォイル』では企画から脚本までを担っています。
2011年にはコナン・ドイル財団の公認を得てホームズ物の新作長編『シャーロック・ホームズ 絹の家』を発表し、2015年からはイアン・フレミング財団の依頼でジェームズ・ボンドの新作も手がけました。自前の探偵を立てた本格ミステリでは、『カササギ殺人事件』に始まるシリーズと、作者自身が語り手として登場する〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズを書き継いでいます。
日本では2018年から4年続けて主要な年末ミステリランキングの1位を占めました。2022年には大英帝国勲章(CBE)を受けました。
書誌情報
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