ミステリーとしての読みどころ
真冬のヨーロッパを、一本の豪華列車が横切っていきます。国籍も身分もばらばらの乗客を乗せ、暖かな寝台車の中で人々がめいめいの夜を過ごすうち、外では雪が音もなく降り積もり、ついに列車は雪原のただ中で立ち往生してしまう——『オリエント急行の殺人』は、その閉ざされた一夜に起きる事件を描く、アガサ・クリスティーの代表作のひとつです。
世界中で読み継がれ、幾度も映像化されてきた、文字どおりの古典と呼べる一冊です。
著者について
著者アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーの生まれ。1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』で作家として世に出ると、以後、名探偵エルキュール・ポアロを軸とする謎解き長編を次々に発表し、黄金期英国ミステリの中心に立ちました。
本作はその長編第14作、ポアロが登場する物語としては第8作にあたります。刊行は1934年1月1日、英国のコリンズ・クライム・クラブから。
米国では同じ年の2月に、当時は『Murder in the Calais Coach』の題で送り出されました。数多い自作のなかでも、クリスティ自身が「お気に入りの10作」の一つに挙げた一冊として知られています。
物語の舞台は、その名も名高い豪華国際寝台急行、オリエント急行です。真冬だというのに車内は思いのほか混み合い、名探偵エルキュール・ポアロもまた、偶然この列車に乗り合わせた一人でした。
乗客たちの顔ぶれは実にさまざま。国籍も、身分も、身にまとう気配もまるで違う人々が、走る列車のひとつの車輌に肩を寄せ合っています。
愛想よく言葉を交わす者もいれば、どこかよそよそしく、心の内を見せない者もいる。そんな雑多な同乗者たちを乗せて、列車は夜のヨーロッパを進んでいきます。
ところが、その夜のうちに、列車は思わぬかたちで足を止めます。ユーゴスラビア領内とおぼしき雪原で大雪が線路を塞ぎ、列車はすっかり立ち往生してしまうのです。
あたりは白一色に覆われ、助けはすぐには望めません。にぎやかだったはずの車内には、外界から完全に切り離された、細長い箱のような静けさだけが残されます。
そして夜が明けたころ、その閉ざされた車内で、いわくありげなアメリカ人富豪ラチェットが、客室で無残な刺殺体となって発見されるのです。
事件が起きたのは、逃げ場のない列車の中。雪が四方の退路を断ち、乗客の誰もがその夜、同じ車輌の内側にいました。
つまり手を下した人物は、いまポアロが顔を合わせている、この乗客たちの中にしかいない。ところが、一人ひとりから話を聞いていくと、彼らはそれぞれに隙のないアリバイを口にします。
偶然の乗客であったはずのポアロは、こうして望まぬままに捜査を引き受け、小さな寝台車の中で乗客と向き合っていくことになります。読者もまた、その狭い車内に一緒に閉じ込められたように、隣り合う人物の素性を測りかねながら、交わされる証言の一つひとつに耳を澄ますことになるのです。
読みどころ
読みどころは、限られた空間と限られた人数だけで、これほど濃密な謎解きが成り立つのかという驚きにあります。 舞台は走る列車の、さらに一輌ぶんの寝台車。
登場人物はそこに乗り合わせた面々にほぼ限られます。にもかかわらず、ポアロが一人ひとりから話を聞くたびに、それぞれの背後にある人生の陰影が立ち上がり、車内の空気は少しずつ張りつめていく。
舞台を絞り込むことが、かえって人物の彫りを深くしているのです。
この密度は、クリスティ自身の実体験と無縁ではありません。彼女はこのオリエント急行をこよなく愛し、みずから幾度も乗車しています。
寝台車のつくり、国境を越えるときの手続き、雪に閉ざされた車内に流れる時間——舞台描写のたしかさは、その現場の記憶に支えられています。熱心な読者のなかには、彼女が書き留めた車内の細部を、実際に列車に乗って確かめた人までいるといいます。
本作は、あらかじめ多くを知らずに読むほど深く楽しめる一冊です。名探偵の推理に静かに身を任せ、最後の一ページまでたどり着く道のりそのものを味わう——そういう読書を好む方には、これ以上ないおすすめができます。
派手な活劇やスピード感を第一に求めて開くと、証言を丁寧に積み上げていく運びは、ゆっくりに感じられるかもしれません。けれども、その一手ずつの積み重ねこそが、この物語の醍醐味です。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の山本やよい訳が現行の版で、紙でも電子でも難なく手に入ります。日本では1935年に『十二の刺傷』(延原謙訳)の題で初めて紹介されて以来、訳を替えながら読み継がれてきた作品です。
映画では1974年のシドニー・ルメット版、2017年のケネス・ブラナー版などが名高く、映像から本作に触れた方も少なくないはず。原作には、映像では拾いきれない車内の空気や人々の身振りが一行ずつ書き込まれています。
黄金期英国ミステリの王道を一冊、確かなもので味わいたい方に、迷いなく差し出せる名作です。