殺し合いに雇われた。
インシテミル
時給11万2000円で7日間。閉じた館で報酬と推理が結び付く、緊張の犯人当て。
時給11万2000円。この一行に手が伸びた12人の男女が、外界から切り離された施設に閉じ込められます。
『インシテミル』は、金という即物的な餌で人を閉じた場所に集め、そこで何が起きるかを最後まで見届けさせる長編です。「ある人文科学的実験の被験者」になるだけで破格の報酬がもらえるはずだった。
ところが施設で告げられた実験の中身は、より多くの報酬を巡って参加者同士が殺し合う犯人当てゲームでした。日常の謎を得意としてきた米澤穂信が、青春小説の枠を外して踏み込んだ転回点の一冊です。
物語の入り口
入り口は、いたって俗っぽい。「ある人文科学的実験の被験者」になるだけで、時給11万2000円がもらえるという破格の仕事。
応募したのは、12人の男女です。互いのことは何ひとつ知らない、年齢も性別もばらばらな顔ぶれ。
破格の報酬に、それぞれの事情で手が伸びた人たちです。実験の中身が何であれ、それだけの金がもらえるなら。
誰もが最初は、そのくらいの軽さで足を踏み入れます。
とある施設に閉じ込められた彼らは、実験の内容を知って驚愕します。より多くの報酬を巡って、参加者同士が殺し合う犯人当てゲーム。
誰かが手を下せば、残された者は考えなければならない。しかもその思考は、善意でも正義感でもなく、報酬の増減という即物的な理由に支えられています。
名探偵が真実のために推理する古典の構図を、そっくり裏返したような設計です。
読者は、12人の一人として施設の中に立たされます。外部との連絡は絶たれ、周りにいるのは見知らぬ人ばかり。
互いを疑い、疑われまいと振る舞い、それでも推理を放棄できない。次に何が起きるかを追うのと並んで、置かれた条件そのものが、読者にも損得の計算を促してきます。
報酬の増減が推理を急かすこの設定は、読み手を安全な観客席に座らせておいてくれません。
読みどころ
推理と金銭が同じ回路につながっている。この設計が、閉鎖空間の緊張を最後まで緩ませません。
閉じた場所に見知らぬ者たちが集められ、外部との連絡を絶たれる。骨組みそのものは、ミステリが百年かけて磨いてきた型です。
本作はその型を隠さず、むしろ堂々と借りたうえで、現代的な報酬設計という一点だけを新しく差し込みました。伝統に対する屈託のなさが、かえって鮮やかに映ります。
もうひとつは、作家の歩みのなかでの位置です。約束事だらけの謎解きを、恥ずかしがらずに正面から極端まで押し進める。
題名に込めたその姿勢のまま書き切られたこの物語は、2008年の第8回本格ミステリ大賞・小説部門で最終候補に残りました。〈古典部〉〈小市民〉の穏やかな放課後を書いてきた作家が、ここで一度、閉ざされた施設での殺し合いのゲームにまで振り切った。
のちの仕事を先に知っている読者ほど、その振れ幅の大きさに目を留めるはずです。
こんな人におすすめ
閉じた場所に人が集められる話が好きなら、まず外れません。推理の手続きそのものを楽しみたい読者にも向いています。
金と命が同じ天秤に乗る、その設計を不謹慎と感じない人向けの一冊でもあります。逆に、〈古典部〉のような穏やかな日常の謎を米澤穂信に求めている人には、この殺伐とした設定は少し驚きかもしれません。
作品の背景
日常のささやかな違和感を推理の対象にする書き手、という印象のまま本作を開くと、少し面食らうかもしれません。青春小説の外側へ足を伸ばしていく後年の作品群を思うと、ここが分かれ道になった作品だとわかります。
米澤穂信にとっては、助走が終わったばかりの時期の仕事です。
題名の由来がまた振るっています。こういうミステリもまた好きだった、という自身の思いに「ひたすら淫してみよう」。
そう考えて付けられた一語が、そのまま作品の姿勢になっています。本書は2007年8月、文藝春秋から刊行され、翌2008年の第8回本格ミステリ大賞では小説部門の最終候補に残りました(受賞は有栖川有栖『女王国の城』)。
「本格ミステリ・ベスト10」2008年版の国内4位を筆頭に、「このミステリーがすごい!」2008年版で10位、「週刊文春ミステリーベスト10」2007年国内編で7位と、主だった集計に軒並み名前を残しています。
手に取るなら
現行版は文春文庫。2010年6月から文庫に入っていて、電子書籍でも読めます。
解説は香山二三郎。同じ2010年には『インシテミル 7日間のデス・ゲーム』の題で映画にもなっているので、読み終えてから映像を追いかけてみるのも楽しい一冊です。
米澤穂信について
米澤穂信は1978年、岐阜県の生まれです。金沢大学文学部の在学中からウェブサイトで小説を発表しており、大学時代に北村薫の『空飛ぶ馬』『六の宮の姫君』を読んで衝撃を受け、ミステリへ進む道を定めたといいます。
卒業後は書店で働きながら書き続け、2001年に『氷菓』で第5回角川学園小説大賞ヤングミステリー&ホラー部門奨励賞を受けてデビューしました。
高校生の身の回りの謎を扱う〈古典部〉〈小市民〉の両シリーズを書き継ぐ一方、大人の読者に向けた長編や短編集へも領域を広げてきました。2011年に『折れた竜骨』で第64回日本推理作家協会賞、2014年に『満願』で第27回山本周五郎賞を受け、2021年刊の『黒牢城』では第12回山田風太郎賞に続いて第166回直木三十五賞と第22回本格ミステリ大賞を受けています。
2025年には〈小市民〉シリーズで第10回吉川英治文庫賞を受けました。
書誌情報
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