黄金期英国古典 1934
瀕死の男が遺したのは、
答えではなく問いだった。
『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか』アガサ・クリスティー

書評

なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか

崖下の男が遺した謎の一言――若い二人組が挑む、軽快な冒険ミステリ。

なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(ハヤカワ・クリスティー文庫) 原書 1934年 · 邦訳 1959年
目次

ゴルフの最中に、崖下で瀕死の男を見つけてしまった——牧師の息子ボビイの、ある一日はそんなふうに始まります。かろうじて息のあった男が、最期にたった一言だけを残して事切れる。

「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」前後の脈絡もなく、意味の取りようもない問いかけ。アガサ・クリスティーは、この宙ぶらりんな一言だけを起点に、一冊まるごとの冒険譚を組み上げてみせました。

『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか』(原題 Why Didn't They Ask Evans?)は、クリスティーが1934年に発表した長編です。邦訳はハヤカワ・クリスティー文庫に収められています。

クリスティーといえば名探偵の作家、という印象が強いかもしれません。けれど本作には、ポアロもミス・マープルも登場しません。

シリーズ探偵の看板を外した単発作。謎に立ち向かうのは、捜査の権限も推理の名声も持たない若い二人組です。

名探偵が現れれば、事件はおのずと「解かれるべきもの」として整えられていく。その保証がないところから走り出すぶん、本作の物語は手探りで、危なっかしくて、そのぶん途方もなく楽しい。

「若いふたりの謎解き大冒険」という惹句は、けっして大げさではないのです。

物語の入り口

舞台はウェールズの海辺のゴルフ場です。潮風とグリーン、それだけで英国の休暇小説めいた、のどかな幕開け。

牧師の息子ボビイは、その日もいつものようにコースに出ていました。事件とはおよそ縁のない、退屈と言ってもいいくらいの午後。

ところがゴルフの最中、崖の下に人が転落しているのを見つけてしまいます。見れば、男はまだかろうじて息がある。

人けのない崖の下で、ボビイはその傍らに付き添うことになります。

やがて男は、わずかに意識を取り戻します。最期の力を振り絞って口にしたのは、たった一言。

「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」——それだけを告げて、男は息を引き取ります。

遺言と呼ぶには、あまりに奇妙な言葉です。その一言が何を意味するのか、解きほぐす材料はどこにもありません。

答えを知っているはずの唯一の人物は、もういない。ボビイにしてみれば、見ず知らずの男から、答えの用意されていない問いをひとつ押しつけられたようなもの。

忘れてしまえばそれきりの、収まりの悪い一言です。けれども、その収まりの悪さこそが人を動かす。

そんなボビイのもとに現れるのが、幼なじみのフランキー——フランシス・デヴェント令嬢です。お転婆という言葉がこれ以上なく似合う娘と、牧師の息子。

育ちも立場も違う旧友どうしが顔を突き合わせた瞬間、行き場のなかった問いは、たちまち二人だけの共同作業へと姿を変えます。こうして幕を開けるのが、若い男女のユーモアあふれる縦横無尽の大活躍。

謎の言葉の意味を追う、というただそれだけの動機で、二人は日常の外側へ踏み出していくのです。捜査の権限がないぶん、遠慮もない。

素人の身軽さは、ときに肩書きよりも強い武器になります。

読みどころ

読みどころは、名探偵のいない謎解きが、これほど軽やかに転がるという発見です。 手元にあるのは意味不明の一言だけ。

読者は権威ある探偵の推理を仰ぎ見るのではなく、素人二人の肩越しに、同じ手探りを共有する位置に立たされます。二人が何かに気づけば読者も同じ地点で気づき、二人が行き詰まれば読者も一緒に立ち往生する。

この距離の近さは、名探偵ものではなかなか味わえないものです。

もうひとつの持ち味は、テンポの明るさでしょう。重い筆致で読者を圧するかわりに、会話と行動で物語をぐんぐん前へ転がしていく。

1934年の作品でありながら、古典にありがちな重厚さに足を取られることがなく、休日の午後にすっと入っていける身軽さがあります。海外の古典ミステリは構えて読むもの、と思っている人ほど、この軽さは効くはずです。

長い年月を越えて読み継がれてきた作品が、これほど気安く隣に座ってくれる。それ自体、なかなか贅沢なことではないでしょうか。

一方で、緻密な捜査の積み重ねや、人間の暗部に沈んでいくような重い犯罪小説を求める気分のときには、この明るさは物足りなく映るかもしれません。名探偵の圧倒的な頭脳に身を任せる快感を期待して開くと、素人二人の手探りはもどかしく見えることもあるでしょう。

逆に言えば、探偵の看板を持たない若者が謎に飛び込んでいく高揚こそ、本作の芯にあるもの。冒険小説の楽しさと謎解きの興味を両手に持ちたい読者、クリスティーの代表作をひととおり読んで次の一冊を探している読者には、これ以上ない寄り道になります。

手に取るなら

邦訳は早川書房のハヤカワ・クリスティー文庫から刊行されています。ポアロもマープルも登場しない単発作ですから、シリーズの読み順を気にする必要はまったくなく、どこから手に取っても大丈夫。

クリスティーを初めて読む一冊目にしても、名探偵ものの合間の箸休めにしても、よく効きます。崖下の男が遺した一言の意味を、若い二人と一緒に追いかけてみてください。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・クリスティー文庫
原書刊行年
1934
邦訳刊行年
1959
系譜
黄金期英国古典

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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