死体はどこにもない。
第三の女
「人を殺したかもしれない」と訪ねてきた女性が「あなたは年を取りすぎている」と去る。60年代後期ポアロ
ある朝、名探偵の朝食の席に、見知らぬ若い娘が押しかけてきます。ブリオッシュとホットチョコレートというポアロの優雅な朝の時間を破って、彼女はただごとでない用件を切り出す。
自分は人を殺したかもしれない、と。ところがその告白は宙に浮いたまま、娘はポアロをひと目見るなり「あなたは年を取りすぎている」と言い残し、さっさと立ち去ってしまいます。
手元に残されたのは、名前も、殺された相手も、確かな証拠も何ひとつない、告白の抜け殻だけ。名探偵の一日は、解くべき謎の輪郭すら見えない、奇妙な出会いから幕を開けます。
『第三の女』は、アガサ・クリスティーが1966年に発表したポアロものの長編です。原書はこの1960年代なかばの刊行で、邦訳は早川書房クリスティー文庫におさめられています。
名探偵ポアロが登場するシリーズは長く書き継がれ、本作はその後期、通算でも三十作を越えたあたりに置かれる一編です。灰色の脳細胞で鳴らした老名探偵が、ミニスカートとポップアートに彩られた「スウィンギング・ロンドン」の若者文化と正面から向き合う——巨匠がキャリアの後半にあえて同時代の若い世代へまなざしを向けた、シリーズのなかでも毛色の変わった作品として知られます。
長く探偵小説を書き継いできた作家が、自らの生み出した名探偵ごと新しい時代のただ中へ放り込む。その配置そのものに、本作のねらいがよく表れています。
派手なトリックの妙より、移ろう時代の手ざわりで読ませるタイプの一冊です。
物語の入り口
題名の「第三の女(サード・ガール)」は、当時のロンドンの暮らし方そのものを指しています。ひとつのフラットを若い娘たちが分け合って住む。
まず定職を持つ者が部屋を借り、次に相部屋の相手を見つけ、さらにもう一人——三人目の同居人を広告で募る。この「三人目の娘」が、そのまま物語の中心へ据えられます。
公式のあらすじによれば、同居する三人はそれぞれ色合いの違う娘たちです。ひとりは冷静で有能な個人秘書、ひとりは芸術家肌、そして残るひとりが、ポアロの朝食を破って現れたあの娘でした。
彼女は自分が殺人を犯したらしいと言いながら、肝心の中身を語らないまま姿を消してしまいます。名探偵の自尊心はいたく傷つけられますが、事はそれで済みません。
その日の午後、事情通の推理作家オリヴァー夫人から周辺の噂を聞かされると、ポアロは俄然この一件に興味を示し、夫人とともに調査へ乗り出します。
ところが、探れば探るほど手応えがない。娘の周囲を見渡しても、殺人の匂いはどこにも漂っていないのです。
死体がない。被害者もはっきりしない。
そもそも本当に事件があったのかどうかすら、なかなか像を結ばない。あるのは、若い娘が残した「人を殺したかもしれない」という曖昧な一言と、それを取り巻くとりとめのない噂ばかり。
確かな証拠を掴まないかぎり、名探偵は娘について何ひとつ断を下せません。読者もまた、輪郭のさだまらない不安だけを頼りに、霧の中を手探りで進むポアロの隣を歩くことになります。
事件が起きたのかどうかさえ見えないまま話が転がっていく——この落ち着かない宙ぶらりんの感触こそ、本作を開いてまず味わうものです。
読みどころ
読みどころは、犯罪をめぐる謎と、それを包む「時代の空気」とが分かちがたく結びついているところです。 事件の輪郭が長らくはっきりしないまま進んでいく語り口は、後期クリスティーならではの大胆さと言っていいでしょう。
物理的な仕掛けで正面から攻めるより、日常のなかにわだかまる不穏さを少しずつ濃くしていくやり方で、読者をじわじわと引き込みます。
もうひとつの支えが、相棒として再登場する推理作家オリヴァー夫人の存在です。彼女の直感と、しばしば脱線する物言いが、理詰めのポアロをほどよく揺さぶり、つかみどころのない捜査にユーモアと推進力を添えます。
証拠の乏しさに苛立つ名探偵と、勘まかせに突き進む夫人。噛み合わないようでいて、この凸凹の二人組が霧の濃い事件を少しずつ前へ動かしていくさまが楽しい。
名探偵に身を任せる安心感と、六〇年代英国の風俗をのぞき見る楽しさとを、一冊で同時に味わえる作りになっています。
きっちり組まれた密室や機械仕掛けのトリックを本命に据えて読みたい向きには、この曖昧な立ち上がりはもどかしく映るかもしれません。裏を返せば、名探偵の推理に身を委ねながら、事件の輪郭がゆっくりと定まっていく過程そのものを楽しみたい読者にはうってつけです。
とりわけ、ポアロものを一通り読み進めてきて次の一冊を探している人には、格好の寄り道になります。当時のロンドンの風俗を写した資料としての面白さもあり、腰を据えて世界に浸るほど旨みの増す一作です。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫で読めます。名探偵ポアロと推理作家オリヴァー夫人が顔をそろえるシリーズ後期の一編として、ふたりの息の合った掛け合いを味わいたい読者にも、安心して薦められる一冊です。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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