「暖炉の裏に」と。
親指のうずき
老人ホームの謎めいた言葉と一枚の絵。老境の夫婦探偵が過去の闇を掘り起こす。
老境にさしかかった夫婦が、ふとした違和感ひとつを手がかりに、静かに過去へと分け入っていく。派手な死体の発見でも、切迫した追跡でもありません。
老人ホームで交わされた脈絡のない一言と、遺品にまぎれこんだ一枚の絵。その小さなさざ波が、時間をかけて、しかし確かに不穏さを増していきます。
『親指のうずき』は、夫婦探偵トミー&タペンスが年輪を重ねた姿で再び動き出す、シリーズのなかでも独特の手ざわりを持つ一編です。
物語の入り口
トミーとタペンスの二人は、機知に富んだ掛け合いで難事に挑む「おしどり探偵」として親しまれてきた顔ぶれです。物語は、ごく私的な訪問から静かに立ち上がります。
老境にさしかかったトミーとタペンス。タペンスは、トミーの叔母エイダが暮らす老人ホーム「サニー・リッジ」へ足を運びます。
年老いた親族を見舞う、それだけのはずの一日でした。ところが同宿のランカスター夫人が、タペンスに向かって奇妙な言葉を投げかけるのです。
「あなたのかわいそうなお子さん」。そして、「暖炉の裏に」。
前後の脈絡をまるで欠いた、つぶやきのような一言。聞き流してしまえばそれまでの些細なやり取りに、タペンスはなぜか言い知れぬ胸騒ぎを覚えます。
この、はっきりとは掴めない不安の芽が、物語の底に静かに埋め込まれる。ここが本作の入り口です。
やがて叔母の遺品となった品々のなかに、一枚の風景画があらわれます。運河のほとりに佇む、なんの変哲もない人家を描いた絵。
けれどもタペンスは、そこに描かれた家に、どうしてか見覚えがあるように感じてしまう。実際に見たことがあるのか、記憶のどこにその家があるのか、自分でもはっきりしない。
その曖昧な既視感こそが、彼女を突き動かします。夫のトミーが引き止めるのもかまわず、タペンスは絵の家を探しあてるために旅へ出ていく。
そして、たどり着いた先には罠が待ち受けている——物語は、そう予告しています。老人ホームの謎めいた言葉と一枚の絵という、いかにも些細な入り口から、読者は知らぬ間に不穏な奥行きへと連れていかれるのです。
読みどころ
本作の魅力は、事件が「起こる」よりも先に、空気が「淀んでいく」ところにあります。 派手な仕掛けで幕を開けるのではなく、掴みどころのない違和感を少しずつ積み上げて、読者の足元をじわじわと不確かにしていく。
何が起きているのか判然としないまま、しかし確実に嫌な予感だけが濃くなっていく感触は、正面から謎に挑むタイプの物語とはまた別の緊張を生みます。
もうひとつの読みどころは、年輪を重ねた夫婦探偵の存在感です。長年連れ添った二人だからこその呼吸、相手の思考を先読みする掛け合いの軽妙さは健在で、そこに老いという時間の層が加わることで、単なる名コンビものにとどまらない厚みが生まれています。
危うさに首を突っ込んでいくタペンスと、それを案じながらも結局は付き合わされるトミー。この夫婦の距離感そのものが読んでいて楽しく、事件の陰鬱さと軽妙な会話とが絶妙な均衡を保っています。
縦横無尽に動きまわる二人の姿には、シリーズを追ってきた読者にはもちろん、初めて出会う読者にも通じる親しみやすさがあります。老いてなお現役の探偵であろうとする二人の姿は、それだけで小さな痛快さを帯びているのです。
こんな人におすすめ
静かな不穏さと、夫婦のあたたかな掛け合いが同居する読み心地を楽しめる読者に、本作はよく合います。血なまぐさい派手さや、めまぐるしい展開のスリルを求める向きには、この立ち上がりの緩やかさが物足りなく映るかもしれません。
けれども、その時間をかけた助走こそが、じわりと迫ってくる余韻の源になっています。掴みどころのない不安が少しずつかたちを持っていく過程を味わいたい夜に、そっと開きたくなる一冊です。
作品の背景
本書はトミーとタペンスのシリーズの後期にあたる、1968年に発表された作品。若く血気盛んだった頃の二人ではなく、人生の後半に差しかかった夫婦を主役に据えているところに、まず本作ならではの味わいがあります。
名探偵が颯爽と難事件を裁いていくというより、齢を重ねた二人が日常の延長でふと引っかかりを覚え、その糸をたぐり寄せていく——そんな成り立ちの物語です。
日本では早川書房のクリスティー文庫に収められ、女史後期の佳作として読み継がれてきました。当意即妙のやり取りはそのままに、そこへ過去の記憶がじわりと影を落とす。
その配合が、シリーズの他の作品とは違う陰翳を生んでいます。事件を解くための謎解きであると同時に、時間そのものが主題のように立ちのぼってくる。
老いた探偵たちが過去へ手を伸ばすという構図が、物語全体に静かな余韻を漂わせています。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫がそのまま入り口になります。老いてなお好奇心を失わないトミーとタペンスの、当意即妙にして少し寂しげな旅路を、ぜひ二人と並んで歩いてみてください。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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