現代英国 2014
「もうすぐ殺されます。
でも、捜さないで」。
『モノグラム殺人事件』ソフィー・ハナ

書評

モノグラム殺人事件

クリスティ財団公認ポアロ正統続編第1作。1929年ロンドン、ホテルでの不可解な3件の死。

モノグラム殺人事件 表紙画像
ソフィー・ハナ 早川書房(ハヤカワ文庫 クリスティー文庫) 原書 2014年 · 邦訳 2016年
目次

アガサ・クリスティが遺した名探偵エルキュール・ポアロの、39年ぶりの新作長編。しかも筆を執ったのは、クリスティ本人ではありません。

『モノグラム殺人事件』は、その成り立ちからして特別な一冊です。作者の死とともに閉じたはずの扉が、遺族と財団の公認のもとで、初めて外部の作家に開かれた。

ここで読者を待っているのは、「あのポアロがもう一冊読める」という素朴な喜びと、「他人が書いたポアロを本物と呼べるのか」という小さな緊張の、静かな同居です。

クリスティは1976年に世を去りました。以後、クリスティ家族と遺産管理会社は、長らく新しいポアロ長編を書かせることを認めてきませんでした。

その方針が初めて覆されたのが2014年です。公式に委嘱を受けて書かれた最初のポアロ続編、それが本書にほかなりません。

実に39年ぶりの新作ポアロ長編として、英国・米国を中心に世界的な話題を呼びました。

物語の入り口

物語の舞台は1929年のロンドン。クリスティ自身が書いた1920年代後半のポアロに、そっと差し込まれる時代設定です。

原典の連続性を尊重した位置取りが、意図して選ばれています。

ある夜、ポアロは行きつけの珈琲館で、灰色の脳細胞にひとときの休息を与えていました。そこへ駆け込んできたのが、ひとりの半狂乱の女。

どうやら誰かに追われている様子です。ポアロが事情を尋ねると、女の口からは思いがけない言葉がこぼれます。

自分は「殺される予定」なのだ、と。しかも彼女——ジェニーと名乗るその女は、それは当然の報いなのだから、たとえ殺されても決して捜査はしないでほしいと懇願し、そのまま夜の街へ姿を消してしまいます。

異様な一言だけを置き去りにして。

同じ頃、ロンドンの一流ホテル、ブロクサム・ホテルでは、三人の人間が殺害されていました。奇妙なのは、その死にざまです。

三つの死体は、いずれも口の中に、モノグラム——イニシャルを図案化した意匠——付きのカフスボタンを入れられていたのです。ジェニーはこの被害者ではありません。

それでも、珈琲館で出会った怯える女と、ホテルで見つかった不可解な死のあいだに何かを嗅ぎ取ったポアロは、事件の奥へと分け入っていきます。

その傍らに立つのが、新たな語り手として登場する、スコットランドヤードのエドワード・キャッチプール警部です。原典でポアロの相棒を務めたヘイスティングス大尉とは、性格がまるで違います。

内向的で神経質、自分自身の不安を抱えたまま、名探偵に振り回されていく人物として造形されているのです。ヘイスティングスの快活さを思い浮かべながら読む読者にとっては、その落差そのものが新鮮な発見になるはずです。

読者は、この頼りなくも誠実な警部の目を通して、ポアロの推理をすぐ隣で追いかけることになります。

読みどころ

本作の読みどころは、「他人が書いた名探偵を、どこまで本物として楽しめるか」という一点に凝縮されています。 ハナは、灰色の脳細胞、机上の推論、自尊心と滑稽味が同居するあの佇まいといった、ポアロ像のディテールを丁寧になぞります。

そのうえで、現代の犯罪小説家ならではの構成感覚で、物語の骨格を組み上げていく。原典の模写に留まらず、いまの読者が読んで面白い一編に仕立てようとする意志が、随所に息づいています。

こうした「引き継がれた名探偵」を味わう楽しみは、本作だけのものではありません。たとえばアンソニー・ホロヴィッツが公認のもとで書いたシャーロック・ホームズ続編『絹の家』『モリアーティ』も、同じ喜びと緊張を読者に差し出しました。

名探偵という文化遺産を、別の作家がどう受け継ぎ、自分の物語のなかでどう鳴らし直すか。その系譜のなかに本書を置いてみると、公認続編という試みそのものの面白さが、いっそう立ち上がってきます。

向いているのは、クリスティを一通り読み終えて「ポアロの新作がもう一冊増えるなら読みたい」と思える読者です。あるいは、現代英国の犯罪小説がクラシックな名探偵ものをどう料理するのかに、興味を惹かれる読者。

反対に、クリスティその人の筆致や、ヘイスティングスとの気心の知れた掛け合いをそのまま求めて手に取ると、手触りの違いに戸惑う場面もあるかもしれません。これは原典の複製ではなく、現代の作家がクリスティへの敬意を込めて描いた、新しいポアロの物語なのですから。

作品の背景

公認ポアロ続編の書き手という大役に指名されたのは、ソフィー・ハナです。クリスティ家族が「ポアロを託す最初の作家」に選んだ人物です。

ハナは本作のあとも公認ポアロを書き継ぎ、いまや四作以上を数えるシリーズへと育て上げています。

手に取るなら

入手は早川書房のクリスティー文庫で。ハナによる公認ポアロはその後もシリーズとして続いており、本書が肌に合えば、『棺の中のクローゼット』『三幕の殺人事件』とポアロの新たな事件簿を読み継いでいけます。

クリスティが遺した名探偵に、もう一度会いに行く。そんな贅沢な読書のはじまりに、ふさわしい一冊です。

ソフィー・ハナについて

ソフィー・ハナは1971年、イギリスのマンチェスター生まれの作家・詩人です。マンチェスター大学に学び、1995年に詩集『The Hero and the Girl Next Door』を出して詩人として出発しました。

その詩は英国の中等教育の教材にも採られています。

小説では2006年の『Little Face』で犯罪小説に進み、カルヴァー・ヴァレーを舞台に刑事ウォーターハウスとザイラーが登場する心理サスペンスのシリーズを書き継ぎました。2014年の『モノグラム殺人事件』からはポアロの続編を手がけ、2025年までに6作を数えます。

2023年に英国推理作家協会(CWA)のダガー・イン・ザ・ライブラリー賞を受け、2024年には王立文学協会のフェローに選ばれました。ケンブリッジ大学では犯罪小説創作の修士課程を率いています。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ文庫 クリスティー文庫
原書刊行年
2014
邦訳刊行年
2016
ISBN-13
9784151301049
系譜
現代英国 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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