呪われた丘だった。
終りなき夜に生れつく
名探偵の登場しない一人称の物語。クリスティー自身が愛した異色の一冊。
誰が言い出したのかも定かでないまま、その土地は呪われた〈ジプシーが丘〉と呼ばれていました。名探偵の推理を軸に据えた数々の傑作で知られるアガサ・クリスティーが、1967年に世へ送り出したこの一冊は、そうした彼女の定番からいくぶん離れた場所に立っています。
青年マイクの語りに導かれて、読者はひとつの土地と、そこで芽生えるひとつの恋の行方を、静かに見守ることになります。
物語の入り口
物語は、ひとりの青年の声から静かに立ち上がります。語り手のマイクは、定職を持たず、さまざまな仕事を転々としながら気ままに暮らしている若者です。
腰を落ち着ける場所も、根を張るものも持たない彼が、あるとき一枚の土地に出会い、心を奪われてしまう。それが〈ジプシーが丘〉でした。
誰が名づけたのか、その丘は呪われた土地として近隣に言い伝えられている場所です。けれどマイクは、その不穏な評判にひるむどころか、かえって強く惹きつけられていきます。
なんとしてでもここに住みたい、いつかこの丘に理想の家を建てたい——そんな夢が、彼のなかで抑えがたいものになっていくのです。土地に呪いの名がついていることさえ、彼の憧れをそぐことはありません。
やがてマイクは、その同じ丘で、ひとりの女性と出会います。富豪の令嬢エリー。
育ちも、背負っているものも、暮らしぶりも、まるで異なるふたりでした。それでも彼らは惹かれ合い、恋に落ちていきます。
呪われた土地への憧れと、身分違いの思いがけない出会い。ふたつが重なり合って、物語はゆっくりと動き出します。
書き出しから漂う土地の不吉な気配と、若い恋のまばゆさ。本来なら別々のはずのふたつの色合いが、同じ画面のなかに静かに置かれています。
読者はマイクの声に耳を澄ませながら、その二つをともに受け取っていくことになります。この、二つの色合いが溶け合った佇まいこそ、本書ならではの手ざわりです。
丘の上の日々に身を寄せながら、読者はいつしか彼の夢の行方から目を離せなくなっていきます。定職を持たない青年と富豪の令嬢、そして呪われた名を負った土地。
役者はそろい、あとは物語が動き出すのを待つばかり。マイクの静かな声に耳を傾けるうち、読者はいつしか、この丘の物語から目を離せなくなっているはずです。
読みどころ
本書の魅力は、謎解きの興味とはまた別の糸で、読者を先へと手繰り寄せていく引力にあります。 名探偵が颯爽と現れて事件を裁いてくれるわけではありません。
読者に寄り添うのは、あくまでマイクという青年のひとつの声だけです。その声に導かれて、読者は丘の上の日々を、彼のかたわらでたどっていくことになります。
サスペンスとロマンスが分かちがたく編み合わされたこの語り口は、クリスティーの長い書歴のなかでも忘れがたい読後感を残します。派手な事件が矢継ぎ早に起こるわけではないのに、ページを繰る手が止まらない。
その静かな牽引力こそ、長く書き続けた作家ならではの技のあらわれと言えます。
こんな人におすすめ
いつもの謎解きとは呼吸の異なるクリスティーを味わってみたい読者には、格好の一冊です。名探偵の推理を追う楽しさを何より求める向きには、静かで内向きなこの語りは、はじめ物足りなく映るかもしれません。
けれど、ひとりの青年の声にじっくり付き合い、不穏な余韻ごと物語を味わいたいのなら、これは得がたい読書になるはずです。長く親しんできた作家の、意外な横顔に出会える一冊でもあります。
作品の背景
クリスティーの膨大な仕事のなかで、本書はやや異色の位置を占めています。刊行は1967年のこと。
名探偵の登場しない一人称の物語という体裁をとったこの作品を、クリスティー自身が自作のベストのひとつに選び、愛着を寄せていたと伝えられています。長く書き続けた作家が、なお新しい書きぶりへ手を伸ばしていた——その事実だけでも、本書を手に取る理由になります。
名の通った作家の意外な一面がのぞく一冊、と言い換えてもよいでしょう。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の一冊として読むことができます。表題は、ウィリアム・ブレイクの詩「無垢の予兆」の一節から採られたもの。
その言葉の余韻を胸に置きながらページをめくると、丘の上に流れる時間の味わいがいっそう深まります。名探偵の推理劇とは異なる書きぶりに、この作家のもうひとつの表情がのぞきます。
名探偵の活躍を期待する読者にとっても、そうでない読者にとっても、クリスティーという作家の奥行きをあらためて教えてくれる、静かな自信作です。ふだんとは少し違う一冊から、この巨匠の世界へ入り直してみるのも一興でしょう。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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