心中を老医師は信じない。
貴婦人として死す
戦時下の海辺の村、崖へ続く二人ぶんの足跡。老医師の手記が綴る謎。
戦争が始まったばかりのイギリス。海を見下ろす断崖の村で、人妻とひとりの青年が姿を消します。
崖のふちへ続いていたのは、二人ぶんの足跡だけ。二日後、海はその二人を遺体となって返しました。
心中——村じゅうがそう囁くなか、ただひとり、老いた村医者だけが首を横に振ります。あれは心中などではない、と。
物語の入り口
舞台は、第二次世界大戦が始まったばかりの英国デヴォン州。海を望む小さな村に、ひとつの醜聞が持ち上がります。
年上の夫を持つ人妻リタ・ウェインライトが、俳優を志す年下の青年と恋に落ちた——狭い村では、それだけで十分すぎる大事件でした。世界が大きな戦争へ踏み出そうというときにあって、人々の口の端にのぼるのは、もっぱらこの道ならぬ恋の噂。
人の口に戸は立てられません。そして醜聞は、やがてもっと重く、暗いものへと姿を変えていきます。
ある日、二人は海へ真っ逆さまに落ちる断崖のふちへ二人ぶんの足跡を残したまま、村から忽然と消えてしまうのです。二日後に波が返したのは、二つの遺体でした。
誰の目にも、それは道ならぬ恋の果ての心中と映ります。けれど、この村で長らく家庭医をつとめてきた老ルーク・クロックスリーは、その筋書きをどうしても呑み込めません。
あれは殺人だ——そう信じた医師は、素人ながら犯人を捜そうと奔走しはじめ、聞き込んだこと、目にしたこと、胸をよぎった疑いのすべてを、手記に書きつけていく。物語は、この老医師のペンを通して語られます。
読者は事件を遠くから眺めるのではなく、村の内側に暮らし、当事者たちと顔なじみの医師の目の高さから、少しずつ真相へ近づいていくことになります。
折よく——あるいは間の悪いことに——その村の近くには、カーター・ディクスンの作品で探偵役をつとめるヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿が滞在していました。医師の熱意はたしかなものでしたが、真相はやはり素人の手に余ります。
やがて警察から助力を請われた老卿は、クロックスリー医師と行動をともにし、村を覆う謎へ分け入っていく。そして検死審問を翌日に控えた夜、二人はついに核心の手前まで迫るのですが……。
本作の忘れがたさは、まずその語り口にあります。物語を語るのは、颯爽たる名探偵ではなく、村人たちを長年診てきた一人の家庭医。
その手記は、派手な推理ショーとは無縁の、静かで、どこか不穏な筆致で綴られていきます。読者は明晰な解説者に先導されるのではなく、素人として手探りする語り手のかたわらに立ち、同じ心もとなさを分け持つことになる。
この温度が、戦時下の海辺の村という舞台の翳りと、よく響き合います。
読みどころ
謎解きの造りは、その静かな語りの陰でいささかも緩んでいません。 張り巡らされた伏線を最後まで取りこぼさず回収してみせる手際は、公式にも「本格趣味に満ちた巧緻な逸品」とうたわれるほど。
H・M卿シリーズのなかでもとりわけ評価の高い一作として、長く読み継がれてきました。名探偵の推理に身をゆだねる愉しみと、緻密に編まれた謎解きの手ざわりが、ここでは分かちがたく結びついています。
こんな人におすすめ
黄金期の本格ミステリを、腰を据えてじっくり味わいたい読者にはうってつけの一冊です。事件の輪郭が立ち上がるまで語りは紙数を惜しまないので、冒頭から派手な展開が続くスピード感を求めると、序盤は静かに感じられるかもしれません。
けれど、そのゆっくりとした助走こそが、村の空気と人々の顔つきを読者の中に沈み込ませ、やがて訪れる謎解きの手ごたえを深くします。じわじわと迫る不穏さと、それを断ち切る論理の切れ味。
その両方を一冊で味わいたい夜に、よく合う物語です。
作品の背景
『貴婦人として死す』は、ジョン・ディクスン・カーがカーター・ディクスン名義で書き継いだH・M卿シリーズの一編で、1943年、まさに戦時下に発表されました。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の高沢治訳です。高沢治は東京大学の大学院で学んだ英米文学翻訳家で、カーター・ディクスン作品を数多く手がけてきました。
H・M卿ものの『黒死荘の殺人』(共訳)や『ユダの窓』のほか、『白い僧院の殺人』『殺人者と恐喝者』なども、この訳者の仕事です。巻末には山口雅也による解説を収めます。
カーの語りの妙と本格の骨格を一度に堪能できる、シリーズへの入り口としても好適の一冊。腰を据えて古典本格に向き合いたい夜に、まず手に取って損のない作品です。
カーター・ディクスンについて
カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カー(1906〜1977)がもうひとつの筆名として使った名前です。カーはアメリカ・ペンシルヴェニア州の生まれで、1930年に予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューしました。
1930年代初めにイギリスへ渡り、英国を舞台に書き続けます。本名ではギデオン・フェル博士のシリーズや、シリーズ探偵を持たない『皇帝のかぎ煙草入れ』などを発表しました。
ディクスン名義の顔は、1934年の『黒死荘の殺人』で初登場したヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿です。でっぷりとした体で怒鳴り散らしながら、密室や足跡のない殺人といった不可能犯罪を解いていきます。
『ユダの窓』はこの名義の代表作に数えられます。カーは1963年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の巨匠賞を受け、「不可能犯罪の巨匠」の異名で呼ばれています。
書誌情報
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