ミステリーとしての読みどころ
首から下がほとんど動かない男が、現場に一歩も踏み出さないまま、街を歩き回る連続誘拐犯を追い詰めていく——ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズ第1作『ボーン・コレクター』は、この一見あべこべな設定を推理の原動力に変えてみせます。動けない探偵と、動き回る事件。
その両者の距離をどうやって埋めるのかという興味が、最初のページから読者を捕らえて離しません。派手な追跡劇ではなく、ベッドの上で組み上げられる論理こそが犯人へ迫る武器になる——そんな、ありそうでなかった探偵像がここにあります。
著者について
ディーヴァーは米国ミステリ界の先頭を走り続けてきた書き手で、本作はその代表作として知られる〈リンカーン・ライム〉シリーズの起点にあたります。謎また謎が全編に横溢する、ジェットコースター・サスペンスとも評される一作です。
原書は1997年に世に出て、邦訳は文春文庫から池田真紀子訳で上下巻として刊行されました。評価の裏づけも厚く、1999年にはネロ・ウルフ賞を受賞。
同年の週刊文春ミステリーベスト10で第1位に輝き、「このミステリーがすごい!」のベスト・オブ・ベスト(1988年〜2007年)でも第3位に選ばれています。デンゼル・ワシントンとアンジェリーナ・ジョリーの主演で映画化された、と言えば、その届いた範囲の広さも伝わるでしょうか。
第1作でこれだけの手応えを残したからこそ、ライムとサックスの物語はここから長く続いていくシリーズへと育っていきました。
物語の入り口
物語はケネディ国際空港から動き出します。出張帰りの男女がタクシーに乗り込み、そのまま忽然と消えてしまう。
やがて見つかったのは、地面に埋められた男の遺体でした。突き出した薬指は肉をすっかり削ぎ落とされ、そこには女物の指輪が光っている——では、一緒にいたはずの女はどこへ消えたのか。
この不気味な問いを前に、ニューヨーク市警が協力を仰いだ相手が、科学捜査の専門家リンカーン・ライムです。かつて市警で名を馳せた鑑識の第一人者でありながら、彼は今、四肢麻痺の身でベッドから動くこともできません。
捜査の現場を歩くのは、彼の「手足」となる若き婦人警官アメリア・サックス。ライムが無線越しに細かく指示を飛ばし、サックスが拾い上げた砂粒や繊維や化学物質を、ベッドの上の頭脳が読み解いていきます。
しかも相手は、被害者を手にかける前に必ず手がかりを残していく犯人でした。古い建材、奇妙な物質、骨の欠片。
一見すると何を意味するのか見当もつかない品々が、実は次の犯行現場と時刻を指し示す「謎かけ」になっている。ライムたちは、その暗号を解けるかどうかに賭けながら、証拠の指し示す先へ急ぐことになります。
読み解くのが早ければ間に合うかもしれない、遅れれば手遅れになるかもしれない——時間との競争が、一つひとつの推理に切迫感を与えていきます。動けない探偵が、動き続ける事件に一歩ずつ追いつこうとする。
その張り詰めた緊張が、上下巻の長尺を最後まで走らせる原動力になっています。
読みどころ
この作品の面白さは、「自分では動けない」という制約そのものを推理エンジンに変えた点にあります。 頭脳と手足を二人の人物に分けたことで、名探偵ものの定番であるホームズ&ワトスン型の構図が極限まで先鋭化されました。
ライムは現場を見ない。だからこそ、サックスが言葉で伝える情報と、持ち帰った物証だけがすべてになる。
読者もまた、ライムと同じくベッドの傍らで報告を聞き、そこから何が導けるかを一緒に考える位置に立たされます。動けない探偵と、その目や手足として街を駆けるサックス。
この凸凹コンビが噛み合っていく呼吸そのものが、読みどころのひとつです。
そして専門知識が単なる見せ場の消費に終わらないのも、本作の強みでしょう。法医学や鑑識の理屈が、推理の論理そのものに編み込まれている。
ゆえに科学捜査ものでありながら、フェアプレイのパズルとしての手応えを失っていません。砂の粒ひとつ、繊維一本が、次にどこへ向かえばいいのかを教えてくれる——証拠が論理を通じて次の一手へまっすぐつながっていく感覚は、謎解きの快感そのものです。
加えて、ディーヴァーといえば終盤のどんでん返し。積み上げてきた前提が後半で大きく揺さぶられる構成は本作でも健在で、緻密な論理を保ったまま、もう一段の驚きを差し出してきます。
単なるサイコ・スリラーと本作を分かつのは、まさにこの一点です。
こんな人におすすめ
相性の話をしておきます。連続殺人を扱う以上、手口の描写にはそれなりに残虐なものが含まれるので、そこが苦手な読者は身構えておいたほうがいいかもしれません。
ただし残虐さそれ自体を目的にした作品ではなく、生きる気力を失っていたライムが事件を通じて再び世界とつながり直していく——そんな静かなテーマが芯を通しています。証拠から論理を積み上げていく快感を求める本格読者にこそ、まっすぐ届く一冊です。
手に取るなら
入手は文春文庫、池田真紀子訳の上下巻で。長尺ではありますが、ひとつの証拠が次の謎を呼ぶ構成のおかげで、週末をまるごと溶かす勢いで読み進められます。
リンカーン・ライムという稀有な探偵に初めて出会う一冊として、これ以上ない入口です。