ロビンが矢で殺された。
僧正殺人事件
マザーグースが現実の殺人を予告する。見立て殺人ジャンルの原点と呼ばれる古典の一冊。
「だあれが殺したコック・ロビン?」——大人になれば忘れてしまう他愛ない童謡の一節が、ある朝、現実の殺人現場に予告状として残されていたとしたら。S・S・ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス物第4作『僧正殺人事件』(原書1929年)は、その不吉な着想を長編ミステリの背骨に据えてみせた、童謡見立て殺人という手法の最初期の原型です。
物語の入り口
学者肌の探偵ファイロ・ヴァンスがまとう、あの衒学的で貴族趣味な語り口には、美術評論家として一家を成した著者の前歴がそのまま滲んでいます。
舞台は、四月のニューヨーク。春の光がさしはじめたマンハッタンの一画で、胸を矢で射抜かれた青年の遺体が見つかります。
名は、ジョゼフ・コックレーン・ロビン。奇しくもその名は、童謡でおなじみの小鳥「コック・ロビン」と重なっていました。
しかも彼を殺めたのは、一本の矢。そして現場には、一通の手紙が残されていたのです。
差出人の署名は「ビショップ」——僧正。便箋にしたためられていたのは、あの「Who Killed Cock Robin?(だあれが殺したコック・ロビン)」という、誰もが一度は耳にしたことのある一節でした。
弓で射られたコック・ロビン。それは、童謡が歌うとおりの死にほかなりません。
子ども向けの無邪気な唄と、現実に横たわる死体。その二つが不気味に響き合っていることに気づいたとき、事件はただの殺人ではなくなります。
犯人はなぜ、わざわざマザーグースになぞらえて凶行を演出し、"僧正"を名乗る予告めいた手紙まで送りつけてくるのか。常軌を逸したこの状況を前に、地区検事マーカムは、旧友である素人探偵ファイロ・ヴァンスに助けを求めます。
事件の周辺には、弓術やチェス、そして物理学が複雑に絡み合っていきます。数式と確率を口にする物理学者たちの一族、盤上の駒のように配置されていく人々と出来事——理知と教養に満ちた世界のただなかへ、童謡のあどけない残酷さがじわじわと侵入してくるのです。
ヴァンスが挑むのは、証拠を並べるだけでは届かない、犯人の心の奥そのもの。手がかりを丹念に拾う推理と、相手の内面を読み解く心理学的な手法を携えて、彼は姿の見えない"僧正"の正体へと、一歩ずつ近づいていきます。
読みどころ
本作の価値は、童謡見立てという発明が長編ミステリのなかでどう働くのかを、いちはやく示してみせた点にあります。 犯人が文学や文化のモチーフに沿って犯行を演出する「見立て殺人」は、いまでこそミステリの定番のひとつですが、それを童謡の予告という形で長編に組み込んだ早い例が本作でした。
読者は、次に何が起こるのかを歌詞の側から予感しながらページを繰るという、独特の緊張のなかに置かれます。江戸川乱歩が高く評価し、後世の作家たちが繰り返しこの型に立ち返ったのも、骨格そのものの強さゆえでしょう。
弓矢・チェス・物理学者の一族という道具立ての取り合わせは、それ自体がすでに一つの美意識です。今日の読者の目に、ヴァンスの長広舌や気取った物腰は、いくらか古めかしく映るかもしれません。
それでも、無邪気な童謡が現実の死をなぞっていくという着想の鮮烈さは、刊行から長い歳月を経てなお、少しも褪せてはいないのです。
様式美をたたえた古典本格や、見立てというモチーフそのものに心惹かれる読者には、その源流を確かめる意味でも、まっすぐ薦められる一冊です。切れ味のよい現代的な語りやスピード感を第一に求める読者には、探偵の饒舌な講釈や時代がかった雰囲気が、少し回り道に感じられることもあるでしょう。
けれど、その"もったいぶり"こそが、黄金期の探偵小説がまとう独特の味わいでもあります。腰を据えて謎の世界にゆっくり浸りたい夜にこそ、本作は本領を発揮します。
作品の背景
S・S・ヴァン・ダインが1926年のデビュー以降に書いたヴァンス物は、全十二編。なかでも『グリーン家殺人事件』と本作を頂点とする心理的な探偵法によって、ヴァン・ダインは黄金期アメリカ本格の一時代を築きました。
自ら掲げた「探偵小説二十則」の厳格な規範意識を長編の形で結実させたのが、この一冊にほかなりません。
手に取るなら
入手は東京創元社・創元推理文庫が定番で、井上勇訳が長く読み継がれてきました(初版1959年)。近年はこれに日暮雅通による新訳も加わり、山口雅也による解説も添えられています。
半世紀をこえて版を重ねてきたロングセラーであり、本格ミステリの古典棚には欠かせない一冊。1930年には映画化もされました。
見立て殺人という言葉に少しでも心が動いたなら、まずはこの源流の一作から、その世界へ踏み込んでみてください。
S・S・ヴァン・ダインについて
S・S・ヴァン・ダインは、美術評論家ウィラード・ハンティントン・ライトが探偵小説を書くときに使った筆名です。1888年にヴァージニア州で生まれ、1939年にニューヨークで亡くなりました。
若いころは新聞の文芸欄や文芸誌『スマート・セット』の編集に携わり、近代絵画を論じる先鋭的な評論家として知られていました。
1923年に体を壊して長い療養生活に入り、その間に推理小説を大量に読み込んだことが創作の出発点になったと本人は語っています。後年の伝記はこの回想に疑問を呈しています。
1926年、素性を隠した筆名で、博識な素人探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する『ベンスン殺人事件』を発表し、『カナリア殺人事件』『グリーン家殺人事件』と続けてベストセラー作家となりました。ヴァンスものの長編は12作を数えます。
1928年には、推理小説を書くうえでの心得を二十か条にまとめた文章も発表しました。
書誌情報
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