黄金期英国古典 1948
街で知り合っただけで、
彼は殺人罪に問われた。
『検察側の証人』アガサ・クリスティー

書評

検察側の証人

表題作は法廷劇短編の古典。クリスティの短編11編で「もう一つの顔」に出会える。

検察側の証人 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1948年 · 邦訳 2004年
目次

ロンドンの法廷に、ひとりの青年が被告として立たされています。撲殺されたのは、彼が街で知り合ったばかりの裕福な年配の女性。

状況証拠はことごとく彼に不利で、しかもその莫大な遺産は、この青年に渡ることになっていました。金銭という、これ以上なく分かりやすい動機まで揃っている。

表題作「検察側の証人」は、その法廷を舞台にした短編です。

物語の入り口

表題作の舞台は、ロンドンの法廷です。撲殺された年配の女性の名はエミリー・フレンチ、被告席に立つ青年はレナード・ヴォール。

二人は街で知り合ったばかりの間柄で、しかも彼女の莫大な遺産は、この青年に渡ることになっていた。金銭という動機まで揃い、状況証拠はことごとく彼に不利に働きます。

読者はいわば傍聴席のような位置に据えられ、青年に不利な材料が一枚また一枚と法廷に積み上げられていくさまを、判断を保留したまま見守ることになります。事件の骨組みそのものは決して込み入っていないのに、法廷という場が持つ張りつめた空気だけで、短い枚数がぐっと厚みを増していく。

長い前置きを許さない短編という器のなかで、状況だけを的確に配置して緊張を立ち上げていく——長編とは異なる、凝縮された物語の作り方がここにあります。

読みどころ

長編の名作をいくつか読んだあとに開く「もう一つのクリスティ」として、この短編集はちょうどいい厚みを持っています。 大長編でたっぷりと物語に浸る楽しみとは別に、短い枚数のなかで場面を一気に締め上げる技術がここにはある。

表題作が戯曲となり映画となって世界へ広がっていった事実そのものが、この一編の完成度を静かに証明していると言えるでしょう。

読み方も気楽です。長編のように腰を据えて向き合わなくても、寝る前に一編、通勤の行き帰りに一編、という付き合い方によく馴染みます。

一編ごとに味わいが移り変わっていくので、その日の気分に合わせて拾い読みをしても飽きが来ません。クリスティを長編から入った読者が、その世界の裾野を歩いて広げていくのに、これほど手頃な一冊もそうないはずです。

こんな人におすすめ

向いているのは、ポアロやマープルの長編をひととおり楽しんで、この作家の別の顔をもう少し知りたくなった読者です。逆に、なじみの名探偵がずっと隣にいてくれる安心感を求めて開くと、探偵不在の話が続く分だけ、手応えの違いを感じるかもしれません。

ただ、その振れ幅こそが短編集としての本書の持ち味です。一冊のなかで語り口がくるくると変わる面白さは、長編ではなかなか味わえません。

作品の背景

アガサ・クリスティーが名探偵ものの長編で世界的な名声を築いたことはよく知られていますが、その一方で、雑誌に発表した短編にも息の長い仕事を残しました。表題作「検察側の証人」もそのひとつ。

1925年に米国の雑誌『Flynn's Weekly』に載ったのが初出で、のちに英国の短編集『死の猟犬』(1933)などに収められ、米国では1948年、Dodd, Mead が十一編をまとめた一冊として世に送り出しました。

この表題作は、活字の中だけにはとどまりませんでした。クリスティ自身の手で戯曲に書き換えられてロンドンの舞台で大当たりを取り、さらにビリー・ワイルダー監督によって1957年に映画化されています。

短編として書かれ、戯曲になり、映画になり——媒体を替えながら長く生き続けてきた、法廷劇の古典です。ひとつの短編がこれだけの生涯を歩むことは、そう多くありません。

それだけ、この一編の骨格がしっかりしていたということでもあります。

本書はその表題作を軸に、十一編を収めた短編集です。ページを繰っていくと、並んでいるのが法廷ものばかりではないことに気づきます。

じわじわと神経を追い詰めていくサスペンス寄りの一編があるかと思えば、どこか幻想の匂いを漂わせる話もある。理詰めの謎解きを軸にした長編とは手触りの違う世界が、一冊のなかに同居しているのです。

クリスティという作家がどれだけ広い引き出しを抱えていたのか、その全体を短い時間で覗き見ることができる編成になっています。名探偵の連続活劇を思い描いて開くと、その振れ幅にまず面食らうかもしれません。

ポアロが顔を出すのは「The Second Gong」の一編だけで、あとは定番の探偵役から離れた場所で、それぞれの物語が独立して組み立てられています。

手に取るなら

いま手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の加藤恭平訳です。紙の書籍に加えてKindle版も安定して提供されているので、入手に困ることはまずありません。

長編でクリスティの世界を堪能した方が、その周辺をもう少し広く歩いてみたいと思ったとき、法廷劇短編の古典として名高い表題作から入れる本書は、その最初の一歩として恰好の入り口になってくれます。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1948
邦訳刊行年
2004
ISBN-13
9784151300677
系譜
黄金期英国古典 / 連作短編 · 法廷ミステリ

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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