ミステリーとしての読みどころ
霧に沈むロンドンで、帽子が次々と姿を消していきます。盗まれた帽子は、やがて誰も予期しない場所にちょこんと載って見つかる——街を騒がせるこの悪戯に、人々は《いかれ帽子屋》という綽名を贈りました。
たわいない愉快犯の噂話。そう思って眺めているうちに、悪戯の糸をたぐった先には、ロンドン塔の古い門に横たわる一つの死体が待っています。
『帽子収集狂事件』は、笑い話めいた盗難と、由緒ある塔をめぐる古典的な殺人とが、いつしか一本の線で結ばれていく物語です。
著者について
書き手はジョン・ディクスン・カー。1906年、アメリカのペンシルヴェニア州に生まれました。
1930年、予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』で世に出ると、以後は英国を舞台にした謎解きへと軸足を移していきます。本作の探偵ギディオン・フェル博士のシリーズ、そしてカーター・ディクスン名義で書き継いだヘンリ・メリヴェール卿のシリーズ——二つの名義を巧みに操りながら傑作をものし続け、やがて〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれるようになった作家です。
『皇帝のかぎ煙草入れ』『ユダの窓』といった代表作の題名に、覚えのある方も少なくないでしょう。
『帽子収集狂事件』は1933年の発表。フェル博士が探偵役をつとめるシリーズの、第2作にあたります。
江戸川乱歩が黄金時代を代表する一冊に数えたことでも知られ、カーという書き手の持ち味が早くも封じ込められた初期の代表作として、長く読み継がれてきました。
物語が動きだすのは、その《いかれ帽子屋》の噂でもちきりのロンドンです。人の頭から消えた帽子が、トラファルガー広場の像の上といった突拍子もない場所に載っている。
誰が、何のために——見当もつかないまま、悪戯は日ごとに世間の耳目を集めていきます。
そこへ、一人の古書収集家が厄介事を抱えて現れます。秘蔵していたポオの未発表原稿を、何者かに盗まれたというのです。
しかも込み入ったことに、この収集家自身、例の帽子泥棒の被害にも遭っていた。稀少な原稿の盗難と、街を賑わす愉快犯とが、一人の人物のもとで奇妙に重なり合う。
この時点で、読者はすでに二つの謎を手渡されています。
事が笑い事でなくなるのは、ロンドン塔でのことです。その一角、逆賊門と呼ばれる門のかたわらで、収集家の甥が死体となって発見されます。
しかも遺体の頭には、収集家が盗まれたはずのシルクハットがかぶせられていた。悪戯の帽子、原稿の盗難、塔の殺人。
ばらばらに散らばって見えた出来事が、一つの黒い輪郭の内側へと引き寄せられていきます。
ここでようやく、ギディオン・フェル博士が腰を上げます。読者は霧のたちこめる門のかたわらに立ち、いくつもの符合と食い違いを博士とともに見比べながら、この悪ふざけめいた謎がいったいどこまで底が深いのかを測りかねることになります。
滑稽と不穏が同居したこの立ち上がりこそ、本作がまっさきに差し出してくる手ざわりです。
読みどころ
この物語の妙味は、人を食ったとしか言いようのない謎立てが、そのまま堂々たる謎解きの骨組みへと組み上がっていくところにあります。 公式にも「比類なき舞台設定と驚天動地の大トリック」と評される一編です。
その評判に違わず、二つの謎が絡み合いながら進んでいく運びは、初期のカーがすでに並外れた仕掛け手であったことを、余すところなく証し立てています。
霧のロンドンの空気を吸い込みながら、丹念にまかれた手がかりを拾い、名探偵の推理に身をゆだねる。黄金期の探偵小説がもっとも得意とした愉しみを、悪戯めいた軽やかさでくるんで差し出す——その按配のよさこそ、本作が世代を越えて愛されてきた理由でしょう。
一見たがいに縁もゆかりもなさそうな帽子の悪戯と塔の死とが、はたしてどこで交わるのか。その一点に引き寄せられて、いつしか頁をめくる手が止まらなくなっているはずです。
よく練られた謎を、老練な名探偵の手さばきでほどいてもらう。そんな古典的な読書のよろこびを求める人にこそ、まっすぐ薦められる一冊です。
黄金期ならではの薫りと、どこか人を食ったユーモアとの同居を面白がれる読者ほど、この物語との相性はよいはず。反対に、乾いた現代的なスピード感やひりつく緊張を期待して開くと、霧のなかをゆっくり進むような語り口は、いささかのんびりと映るかもしれません。
けれど、その悠揚とした足取りこそが、謎がじわじわ濃さを増していく感触を支えているのです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の三角和代による新訳がよく整っています。訳者はタートン『イヴリン嬢は七回殺される』なども手がけてきた英米文学の翻訳家で、古い時代の気配を損なわない読みやすい日本語に移してくれています。
巻末には戸川安宣の解説を収録。フェル博士シリーズを代表する一作として、そして〈不可能犯罪の巨匠〉の若き日の冴えにふれる入り口として、これほど頼もしい一冊はそうそうありません。