黄金期英国古典 1948
死んだはずの夫は、
まだ生きているのか。
『満潮に乗って』アガサ・クリスティー

書評

満潮に乗って

「失踪した夫の名」を語る男の出現と撲殺死。戦後英国の空気を映すクリスティ後期の隠れた名品

満潮に乗って 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1948年 · 邦訳 2003年
目次

戦争がようやく終わったイギリスの、小さな村に落ちる死の影から物語は動き出します。『満潮に乗って』は、名探偵エルキュール・ポアロが登場するクリスティー後期の一編。

華やかな仕掛けよりも、戦後という時代の重い空気そのものが人々を締めつけ、そこから事件が立ち上がってくる、静かで手応えのある謎解きです。

物語の入り口

舞台は、戦後の村ウォームズリー・ヴェイル。一族を経済的に支えていた大富豪ゴードン・クロードが、若い未亡人ロザリーンと再婚してわずか数週間後、ロンドン空襲の爆撃であっけなく命を落とします。

莫大な財産は、そっくりそのまま、再婚したばかりの若い妻の手に渡ってしまう。長らく富豪の後ろ盾に頼って生きてきたクロード一族の人々にとって、これは足元をすくわれるような出来事でした。

頼みの綱を失った彼らは、それぞれにまとまった金の必要へと追い立てられながら、どこか宙吊りのまま再起の糸口を探すことになります。あの未亡人さえいなければ——口には出せない思いが、一族のあいだにじわじわと澱のようにたまっていく。

そんな空気のなかで、ポアロのもとをひとりの女性が訪ねてきます。亡くなった富豪の義妹にあたる彼女は、「霊」に警告されたのだと言うのです——あの未亡人の最初の夫は、まだ生きている、と。

霊の導きだけを頼りに、生死の知れぬ人物を捜し出してほしいという奇妙な依頼に、ポアロは戸惑いを隠せません。それ以上に彼を訝しがらせたのは、この女性がわざわざ自分を訪ねてきた本当の動機のほうでした。

やがて舞台は村へと移り、宿〈スタッグ〉に、イーノック・アーデンと名乗る男が姿を見せます。ロザリーンの最初の夫アンダーヘイの消息を知っていると仄めかす、素性の知れない訪問者。

彼の出現は、静まりかえっていた村の水面に小さな石を投げ込みます。そして数日後、その男は宿の一室で撲殺死体となって発見されるのです。

読み進めるうちに立ちのぼってくるのは、戦後イギリスという時代の手ざわりです。配給の窮屈さ、空襲の残した影、戦地から戻ってきた者たち、相続をめぐる神経のすり減るような駆け引き——そうした生活の細部が、クロード一族それぞれの事情や思いを、平板な人物紹介ではなく血の通った像として立ち上げていきます。

誰がどれだけ金に困り、誰が誰を疎ましく思っているのか。その一つひとつが、時代の圧力のなかで自然に浮かび上がってくるのです。

作中の若い女性が漏らす感慨も印象的です。かつては男が戦争へ行き、女が家に残るものだった。

ところが今は、その立場がすっかり逆転してしまった、と。時代が人の関係そのものを裏返してしまった感覚が、事件の底に静かに流れています。

謎解きの興味と、崩れかけた一族の人間模様への関心とが、分かちがたく溶け合っているのが本作の持ち味です。

読みどころ

ポアロが事件に関わる入り口が、地に足のついた戦後の一場面から自然に開かれていくのも味わいどころです。 天才の閃きが唐突に降ってくるのではなく、時代の空気と人々の思惑を丁寧にたどりながら、老練な探偵が糸を手繰り寄せていく。

派手さより滋味を好む読み手を、じっくりと満たしてくれる作りです。

「クリスティーはひと通り読んだ」という方にこそ、手にとってほしい一冊です。有名な代表作と並べて語られる機会はやや少ないものの、人物の配置と動機の絡め方には、後期クリスティーの円熟がしっかりと刻まれています。

名探偵の推理に静かに身をゆだねる愉しみを求める読者なら、まず外すことはありません。逆に、明るく軽やかな謎解きの心地よさを期待して開くと、戦後の翳りを帯びた本作の空気は少し重く感じられるかもしれません。

ただ、その翳りこそが、この物語の芯にあるものです。時代の重みごと味わってこそ、本作は本当の姿を見せてくれます。

作品の背景

ポアロを探偵役とする長い連作のなかの一冊で、本作はその二十七作目にあたります。原書が世に出たのは1948年。

英国では『Taken at the Flood』、アメリカでは『There Is a Tide...』という別々の題で刊行されました。いずれもシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』のブルータスの台詞——人の世には潮の満ちる頃合いがある、という一節から採られたものです。

この引用句が、物語全体を貫く低い通奏低音になっていきます。数多いポアロものの長編のなかでも、ひときわ時代の匂いを濃く宿した一作と言っていいでしょう。

戦争という巨大な出来事をくぐり抜けた作者が、その余韻の残る英国をまるごと一編のミステリに封じ込めた——そう呼びたくなる手ざわりがあります。

手に取るなら

現在手に取るなら、恩地三保子訳による早川書房のクリスティー文庫版が読みやすく、初めての方にも安心して薦められます。潮が満ちてくる頃合いを待つように、静かな余韻を残して物語は引いていきます。

読み終えたあと、その余韻のなかにしばらく身を置いていたくなる一冊です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1948
邦訳刊行年
2003
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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