灯りが落ち銃声が響いた。
予告殺人
地方紙の個人広告に「殺人事件を告知」――クリスティ50作目記念、マープル長編の最高峰
「殺人をお知らせ申しあげます」——地方紙の個人広告欄に、そんな一文が載る。日付も、時刻も、場所まで添えて。
予告された曜日に、予告された屋敷で、本当に人が死ぬとしたら。アガサ・クリスティーが生涯五十作目の記念碑として世に送り出した『予告殺人』は、この一行の不穏さだけで、読者を否応なく引き寄せてしまう一作です。
クリスティーの名は、いまさら説明を要しないでしょう。数々の傑作を生んだ黄金期の女王が、キャリアの節目にあたる五十作目に選んだのは、老嬢の名探偵ミス・マープルが登場する本作でした。
1950年、英国のウィリアム・コリンズ社から刊行され、大西洋の両岸で「クリスティー五十作目」として大々的に宣伝されたといいます。マープルものは数多く書き継がれましたが、その中でも本作を最高峰に推す声は根強く、発表から長い歳月を経てなお、代表作の一角として読み継がれています。
物語の入り口
舞台は、戦後英国の架空の村チッピング・クレグホーン。配給の記憶がまだ生々しく、戦争の影をどこかに引きずったまま、それでも穏やかに時を刻む田舎の共同体です。
朝の食卓、教会の集まり、隣家との立ち話——そうした変わり映えのない日々のなかに、ある朝、村の人々が手にした地方紙〈ノース・ベナム・ニュース〉の個人広告欄に、奇妙な一文が紛れ込んでいました。「殺人をお知らせ申しあげます。十月二十九日金曜日、午後六時三十分より、リトル・パドックスにて」。
売り家や失せ物の告知に混じって現れたその数行は、あまりに場違いで、あまりに直截です。
たちの悪い悪ふざけでしょうか。それとも、仮装ゲームめいた集まりへの、風変わりな招待状なのでしょうか。
村人たちは半信半疑のまま、けれど好奇心には勝てず、噂を肴にひそひそと囁き合います。そして指定された金曜日の夕刻、彼らは申し合わせたように、広告に名指しされた屋敷リトル・パドックスへと足を向けるのです。
この屋敷の主は、レティシア・ブラックロック。招いた覚えのない客たちを前に、当人もまた戸惑いを隠せません。
やがて時計が六時半を打ちます。その瞬間、部屋の灯りがふつりと落ちる。
暗闇のなかで懐中電灯の光が乱れ、銃声が轟く——広告に記されたとおりの時刻に、たしかに何かが起きてしまう。この導入の鮮やかさは、これまでいくたびも引き合いに出されてきました。
予告があり、人が集まり、そして本当に事件が起こる。ミステリの入り口として、これほど人を惹きつける趣向も、そう多くはありません。
事件の報を受けて捜査にあたるのは、クラドック警部。そして近隣のメデナム・ウェルズに滞在していたミス・マープルが、物語の中盤からおもむろに舞台へ姿を現します。
読みどころ
本作の醍醐味は、派手な仕掛けに頼らず、村の人間関係の襞から真相を手繰り寄せていくマープルの手つきにあります。 彼女が耳を傾けるのは、井戸端会議のようなたわいない世間話や、誰もが聞き流してしまう社交辞令の切れ端です。
興奮しがちな料理人ミッツィの証言、独身女性コンビのヒンチクリフ嬢とマーガトロイド嬢、愛らしい牧師夫人バンチ——一人ひとりの輪郭がくっきりと立った村人たちの声のなかに、真相へ通じる細い糸が紛れています。大掛かりな機械仕掛けに寄りかからず、村に生きる人々の観察だけで一枚の絵を組み上げていく手際を、クリスティーはここで惜しみなく披露してみせます。
謎解きの緊張の傍らで、村の暮らしのユーモアが絶えず息づいているのも、この作品の得がたい魅力です。クリスティーは牧師館の飼い猫に、古代アッシリアの王の名から取った仰々しい名前を与えるといった遊び心まで忍ばせており、事件の陰惨さと村の日常のおかしみが、絶妙な均衡で同居しています。
1956年にはマープルものとして初めてテレビ化され、以後も舞台やラジオへ繰り返し翻案されてきました。その息の長さそのものが、物語の完成度を静かに証し立てています。
名探偵の推理にゆったりと身をゆだね、村の日常に分け入りながら謎を追う——そんな古典的な読書の愉しみを求める読者に、本作はまっすぐ応えてくれます。血なまぐさい描写や、疾走感のあるサスペンスを期待して開くと、その穏やかな運びは、少し物足りなく映るかもしれません。
けれど、交わされる言葉の積み重ねから真相の像がゆっくりと結ばれていく、この味わいこそが黄金期ミステリの醍醐味です。マープルという探偵に初めて出会う一冊としても、よく練られた入り口になります。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の田村隆一訳で読めます。ミス・マープルが活躍する長編シリーズの一作であり、シリーズのどこから読み始めてもかまわない独立した物語として楽しめます。
クリスティー入門の入り口としても、長くシリーズを追ってきた読者の再訪先としても、安心して薦められる古典の一冊です。半世紀を優に超えて版を重ねてきた事実が、その面白さの確かさをそのまま物語っています。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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