ミステリーとしての読みどころ
名探偵ドルリー・レーンが登場する〈悲劇〉四部作。その最後を飾る本書は、一通の奇妙な手紙から静かに動きだします。
誰が何のために書いたのかも知れないその手紙をきっかけに、いくつもの謎が同時に立ち上がっていく。黄金期アメリカ本格を代表する巨匠が、覆面の名義に注ぎ込んだ連作の締めくくりを、じっくりと読ませてくれる一編です。
著者について
エラリー・クイーンという署名には、ちょっとした仕掛けが隠れています。これは実在する一人の作家の名前ではありません。
フレデリック・ダネイ(1905-82)とマンフレッド・B・リー(1905-71)、いとこ同士の二人が分かち合った合同ペンネームです。二人は1929年、出版社のコンテストに投じた長編『ローマ帽子の謎』でデビューし、同書に始まる〈国名シリーズ〉で頭角を現しました。
そして彼らはもう一つ、「バーナビー・ロス」という別の署名をこしらえ、まったく違う探偵が活躍する四部作を、正体を伏せたまま並行して書き継ぎます。それがドルリー・レーンものでした。
本書はその四部作の完結編にあたります。国名シリーズとレーン四部作という二つの流れでミステリ界に不動の地位を築き、のちに「アメリカの推理小説そのもの」とまで評された巨匠中の巨匠——その二人が覆面の名義に注いだ連作の、締めくくりの一冊です。
物語の入り口
事件は、サム警部のもとに一人の男が現われる場面から始まります。七色のひげをたくわえた奇妙な風体のその男は、一通の手紙をサム警部に預けると、用件だけを残して去っていく。
手紙が何を告げているのか、なぜ自分に託されたのか——警部にも、そして読者にも、まだ何一つ見当がつきません。奇妙な訪問者と、宛名のない予感だけが、最初の頁に置かれます。
やがて物語の中心には、シェークスピアにまつわる一巻の古文書が浮かび上がります。それをめぐって学者たちが火花を散らし、争いが熱を帯びていく。
古い紙をめぐる諍いは、けれど静かな書斎の内には収まりません。事態は思いがけない方向へと広がり、サム警部の娘である若く美しいペーシェンスを、抜き差しならない窮地へと追い込んでいきます。
そこへ引き寄せられるように、聾者の名探偵ドルリー・レーンが姿を現します。耳が聞こえないという際立った特徴を負ったこの探偵が、もつれた事件の渦へ静かに踏み込んでいく。
かたわらでは、姿を消した一人の警官の行方が、もう一つの答えの出ない謎として宙に浮いたままです。七色のひげの男が残した手紙、学者たちが奪い合う古文書、消えた警官——ばらばらに見えていた糸が、少しずつ一つの結び目へ手繰り寄せられていくのです。
読者はここで、いくつもの謎を同時に抱えたまま先へ進むことになります。一つの事件が片づけば終わり、ではありません。
別々の場所で起きた出来事が、どこかで繋がっているらしい——その気配だけを頼りに頁をめくるうちに、いつしか物語の奥へ深く引き込まれている。端正な組み立てと、次に何が起きるのかという純粋な牽引力が、みごとに両立した立ち上がりです。
読みどころ
本書の魅力は、公正な論理の謎解きを、名探偵の導きに身をあずけて味わえるところにあります。 クイーンは〈国名シリーズ〉で、「手がかりはすべて読者の前に置く」という流儀を確立した書き手です。
読者は探偵とまったく同じ情報を手にして、推理の土俵に立つ。名義を替えたレーンものでも、その公正な手つきは少しも揺らぎません。
あちこちに撒かれた謎が、一本の論理へと集約されていく過程を、自分の頭で追いかける愉しみがあります。
もう一つの読みどころは、四部作を順に読み通してきた読者にこそ開かれる感慨です。 『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』、そして本書。
この順番で頁を重ねてきた人にとって、最終作となる一冊は格別の重みを帯びます。単独の謎解きとして味わうだけでなく、長い道のりの締めくくりとして読むとき、その手応えはいっそう深くなる。
だからこそ、できることなら四作を順に辿ってから本書へ行き着くのが、いちばん豊かな出会い方だと言えるでしょう。
公正な論理の謎解きを、名探偵の推理にゆったり身をゆだねて味わいたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。幾筋もの謎が並走し、それが徐々に手繰り寄せられていく感触が好きなら、なおのこと相性がいいはず。
反対に、軽快なテンポでさっと読み切れる娯楽を求めていると、黄金期らしい重厚な運びは少しゆっくりに感じられるかもしれません。それでも、腰を据えて謎と向き合う時間そのものを愉しめる読者なら、その落ち着いた歩みはやがて満足へと変わっていくはずです。
手に取るなら
現在は東京創元社の創元推理文庫で手に取ることができます。「バーナビー・ロス」名義で世に出たドルリー・レーン四部作——『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』、そして本書『レーン最後の事件』——の掉尾を飾る一編であり、黄金期アメリカ本格を代表する巨匠の仕事を、その到達点から振り返るのにうってつけの作品です。
名義に隠された秘密も含めて、ミステリ史に刻まれた四部作の最後の一冊を、ぜひ順を追って味わってみてください。