ミステリーとしての読みどころ
「歯医者に行ってきた。これで半年は通わずに済む——なんと美しい考えだろう」。治療を終えたエルキュール・ポアロが、そんな安堵を噛みしめていた矢先のことでした。
ほっと息をついた名探偵のもとに、たった今まで自分の口の中をのぞき込んでいた歯科医が急死したという報せが飛び込んでくる。事件は、日常のいちばん平凡な場所から幕を開けます。
著者について
『愛国殺人』は、アガサ・クリスティーが1940年に発表したポアロもの。長いポアロ史のなかでも二十作を優に超えたあたりに置かれる、脂の乗りきった時期の一編です。
原題 One, Two, Buckle My Shoe はマザーグースの数え歌そのままで、クリスティーが好んだ「童謡見立て」の趣向がここでも効いています。米国では『The Patriotic Murders』『An Overdose of Death』の題でも流通し、邦題は「愛国」の二字で作品の芯をずばりと突いています。
後年にはテレビ・ラジオへと姿を変えて繰り返し親しまれ、映像版ではデイヴィッド・スーシェがポアロを演じました。数え歌の軽やかさとは裏腹に、これが従来の明るいポアロものとは肌ざわりの異なる、影の濃い一編として受け止められてきたことも申し添えておきます。
多作なこの時期の作品群のなかでも、本作はとりわけ政治のにおいが濃い一冊として語り継がれています。
物語の入り口
舞台は、ロンドンはベルグレイヴ広場に診療所をかまえる歯科医モーリィ。ポアロが通いつけの、腕は確かで実直な男です。
ところがその日、ポアロが治療を終えて診療所を後にしたほんの数時間後、当のモーリィが拳銃自殺の姿で発見されます。なんの屈託もなさそうだった男に、いったいなぜ。
しかも同じ日、同じ歯科医の治療を受けていた患者のひとり、ギリシャから来たアンベリオティスまでもが急死する。麻酔薬が過剰に効いた不幸、そして思い詰めた末の死——警察は事態をそう手際よく片づけようとします。
けれどポアロだけは、どうにも腑に落ちない。
その引っかかりの正体は、すぐには言葉になりません。歯科医の待合室というのは、考えてみれば奇妙な場所です。
財界の大物も、舞台の女優も、屋敷の使用人も、ここでは同じように口を開け、同じように無防備な椅子へ座らされる。診察を待つあいだ、誰もが少しだけ肩書きを脱いで、ただ痛みを怖がる一人の人間に戻っている。
身分の鎧をいったん外されたその平場を起点に、クリスティーは英国社会の階層と利害を一枚ずつめくっていきます。やがて視界に入ってくるのが、英国経済の屋台骨を支えるとまで言われる銀行家アリステア・ブラント。
彼をめぐって働く力と、それに抗おうとする力。日常のごく退屈な一角で起きたはずの出来事が、いつのまにか国の重心へと手を伸ばしはじめる。
ポアロは、数え歌が一段ずつ数を刻んでいくのに歩調を合わせるように、ありふれた靴の留金から、その大きな重心へと少しずつ足を進めていくことになります。
読みどころ
童謡の見立ては飾りではなく、物語そのものの足取りになっています。 「いち、にい」と数を数えあげていくその数え歌は、二十まで続きます。
単に各章の題として貼りつけられているのではなく、数え歌が数を刻んでいく進行そのものが、事件の歩みと重なるように設計されているのです。その一段一段に出来事の断片が割り振られ、ばらばらに見えていた事実が韻律に押されるようにして一枚の絵へ収束していく。
留金を締め、枝を拾い、まっすぐ並べる——歌詞のなぐさみめいた動作の連なりが、いつしか論理の階段に化けている。仕掛けとしての心地よさが、たしかにあります。
もう一つ、本作を忘れがたくしているのは、1940年という時局そのものです。ナチス・ドイツとの戦争が始まったばかりのロンドンで書かれた本作には、「国家の安定」と「一人の人間の正義」をどう秤にかけるのかという問いが、骨格として通っています。
登場人物たちは遠慮なく政治的な信条をぶつけ合いますが、ポアロ自身は自らの意見を、容疑者を見る目には決して持ち込まない。派手な密室も奇抜な機械仕掛けもない代わりに、人間の動機と社会の重みが正面からぶつかる、骨太の手応えが残ります。
個の思いと大きな秩序とが釣り合わないとき、人はどこに立てばいいのか。その問いが、事件の解決の先までしんと尾を引きます。
名探偵の推理にじっくり身を委ねたい読者、そして謎解きの奥に人間と社会のドラマを求める読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、軽やかで明るい謎解きの手ざわりを期待して開くと、戦時下の陰りと政治の話題が少し重く感じられるかもしれません。
ただ、その重さこそが本作の持ち味で、読み終えたあとに長く尾を引くのも、まさにそこなのです。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、加島祥造訳が読みやすいでしょう。端正な訳文が、戦時下ロンドンの空気を損なわずに日本語へ移してくれます。
名探偵の明晰さと、時代に切り結ぶ社会派の重さとが同居した、ポアロものとしては珍しい均衡の一作。ポアロの灰色の脳細胞が、数え歌の留金を一つずつ外していく道行きを、腰を据えて味わいたい長編です。