黄金期英国古典 1941
部外者のいない島。
犯人は客の中にいる。
『白昼の悪魔』アガサ・クリスティー

書評

白昼の悪魔

陽光の砂浜で元女優が絞殺。完璧に見えるアリバイを崩す、クリスティ屈指のアリバイ崩し本格

白昼の悪魔 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1941年 · 邦訳 2003年
目次

陽光あふれる海辺のリゾートで、砂浜に女性がひとり、うつ伏せに横たわっている——日焼けした美しい体を惜しげもなくさらして。避暑地では見慣れた光景のはずでした。

ただ、この朝だけは違います。まぶしい日射しは翳り、彼女は絞め殺されていたのです。

『白昼の悪魔』(原題 Evil Under the Sun)は、一年でいちばん明るいはずの場所に、いちばん暗い悪意を忍ばせたエルキュール・ポアロものの一編です。

物語の入り口

物語の幕は、潮の引いた砂州でだけ本土とつながる小さなスマグラーズ島から上がります。その島に建つリゾートホテル〈ジョリー・ロジャー〉に、休暇を過ごしにやってきたのがポアロでした。

名探偵とはいえ、彼にとってはあくまで骨休めのはずの滞在です。ところが、開放的な避暑地の空気のなかに、彼は早くもかすかな緊張の匂いを嗅ぎ取ります。

原因は、宿泊客のひとりである元女優アリーナ・マーシャル。男たちの視線を残らず引き寄せ、女たちをそのぶんだけ苛立たせる、華やかで危うい存在です。

避暑客たちはそれぞれの思惑を胸に、日がな海辺で思い思いの時間を過ごしていますが、彼女がその場に現れるだけで、砂浜の空気の色が微妙に張りつめてしまう。うわべの陽気さの底に、名探偵ならずとも気づかずにはいられない不穏な流れが、確かに脈打っているのです。

そして、ある朝。入江の砂浜で、アリーナは絞殺死体となって発見されます。

潮の満ち引きで姿を変えるこの島の地形からして、犯人が滞在客のなかにいることはまず間違いありません。けれど捜査は、たちまち壁に突き当たります。

事件のあった時間帯、容疑者たり得る人物たちの行動は、それぞれ複数の証言によって裏打ちされ、誰にも手を下す隙などなかったように見えるのです。日射しの下、みなの目の前で起きたはずの犯行なのに、そこには犯人の入り込む余地がない。

誰もが確かなアリバイに守られ、容疑の輪は宙ぶらりんのまま行き場を失っていきます。鉄壁に見えるその壁を前に、暗礁に乗り上げた捜査のただ中から、静かに進み出るのがポアロでした。

本作の妙味は、まず「避暑地の本格」という舞台立ての完成度にあります。陽光と海風、水着姿で行き交う宿泊客、潮のたびに表情を変える砂州。

いかにも開放的なその情景に、限られた登場人物・限られた時間・限られた動線という、クローズドサークルさながらの厳密さがぴたりと重ねられているのです。読者はいつしか、誰がいつどこにいたのかを頭のなかで並べ、犯行の可能な組み合わせを数え上げる側に立たされます。

明るい日射しが、かえって影の輪郭を際立たせる。その対比の効き方は、「白昼の悪魔」という題そのものと言っていいでしょう。

読みどころ

完璧に見えるアリバイをいかに崩すか——その一点に、王道のアリバイ崩し本格としての手応えが凝縮されています。 派手な物理トリックで読者を殴りつけるのではなく、丹念に積み上げた論理だけで、その堅牢な壁を内側から解きほぐしていく手つきが身上です。

読み終えたあとに冒頭からの描写を反芻すると、何気ない一場面のひとつひとつが、伏線としてどれほど念入りに張られていたかに、あらためて唸らされます。江戸川乱歩がクリスティー作品のベスト8に本作を挙げ、日本のファンによる投票でも作者ベストテンに食い込んでいるのは、伊達ではありません。

名探偵の推理にそっと身を委ね、その手つきを追いかける愉しみを求める読者に、まっすぐ薦められる一冊です。とりわけ、優雅なリゾートを背景に古典本格の呼吸を味わいたい向きには、これ以上ない舞台が用意されています。

逆に、激しいアクションやハードな暴力、心をえぐるような後味を求めて開くと、この日なたの上品な謎解きは少し穏やかに映るかもしれません。とはいえ、明るさのなかにひそむ翳りこそが本作の狙いどころですから、その温度感を楽しめる人にとっては欠点になりようがありません。

作品の背景

本作が世に出たのは1941年6月、ヨーロッパが戦火に覆われていた時期のことでした。それでもクリスティーの筆はまったく衰えず、この頃の彼女は少なくとも年に一作、しばしば二作を送り出しています。

刊行に際して英国の新聞ガーディアンの評者は、クリスティーを「当代もっとも注目すべき書き手のひとり」と呼んだと伝わります。舞台に選ばれたのは英国南西部のデヴォン州——作者自身が生まれ育った土地でした。

生涯にわたって書き継がれたポアロものの長編のなかでも、円熟期の充実をよく示す一冊に数えられます。

手に取るなら

いま手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫が入り口です。長く親しまれてきた鳴海四郎訳に加えて、近年は田村義進による新訳版も揃い、好みの日本語で読み比べる余地があります。

映像でも縁の深い作品で、1982年にはピーター・ユスティノフ主演で映画化され(こちらは舞台をアドリア海に移しています)、デヴィッド・スーシェ主演の『名探偵ポワロ』でも取り上げられました。ポアロという名探偵の世界に足を踏み入れる最初の一冊としても、その謎解きの鮮やかさを味わい直す再読の一冊としても、頼りになる海辺の事件簿です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1941
邦訳刊行年
2003
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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