ミステリーとしての読みどころ
ベイカー街221Bに届いた一通の暗号。ホームズがそれを解き終えたまさにその瞬間、警告どおりの殺人が現実になったという報せが飛び込んできます。
シャーロック・ホームズが挑んだ長編は、生涯で四つきり。その掉尾を飾るのが本書『恐怖の谷』です。
英国のカントリーハウスに漂う不穏な気配から幕を開け、やがて舞台は大西洋を越え、アメリカの荒涼とした谷へと大きく振れていく。ホームズものの中でも、ひときわ振れ幅の大きな一冊が待っています。
著者について
著者のアーサー・コナン・ドイルは、1859年にエディンバラで生まれた医師でもある作家です。医学部時代に師事した外科医ジョセフ・ベル教授の、鋭い観察から人となりを言い当ててみせる推論術。
それがホームズという名探偵を形づくる土台のひとつになったことは、よく知られています。本書は『緋色の研究』(1887)、『四つの署名』(1890)、『バスカヴィル家の犬』(1901-02)に続く長編第4作。
〈ストランド・マガジン〉に1914年9月号から1915年5月号まで連載され、1915年に単行本となりました。まず2月にニューヨークの George H. Doran 社から、続いて6月にロンドンの Smith, Elder & Co. 社から。
執筆当時のドイルは50代半ばで、その時期はちょうど第一次世界大戦の勃発と重なっています。名探偵の物語が一度の幕切れを迎えつつあった、そんな時代の空気も、どこかこの長編には滲んでいます。
物語の入り口
物語は、ベイカー街に持ち込まれた暗号めいた手紙から動きだします。悪の首魁として名高いモリアーティ教授の配下から発せられたその文面は、サセックス州にあるバールストン館のあるじに、危険が迫っていることを告げるものでした。
ホームズが苦心して暗号を読み解いた直後、事態は最悪のかたちで動きます。まさにそのバールストン館で、凄惨な殺人事件が起きたのです。
知らせを携えてやってきたのは、スコットランドヤードのマクドナルド警部。舞台となる屋敷は、周囲を古い堀にぐるりと囲まれ、夜ともなれば跳ね橋が上がって外界から切り離される。
この閉ざされた設定が、英国カントリーハウスもの本格の王道を踏まえつつ、独特の息苦しさを画面にもたらします。捜査に乗りだしたホームズは、屋敷に残された状況から何を読み取るのか。
前半は、この一点に緊張を凝らして進んでいきます。
ところが本書は、そこで終わりません。物語が中ほどにさしかかると、趣ががらりと変わります。
舞台はアメリカ、ペンシルベニア州の炭鉱地帯。時はおよそ20年前へとさかのぼり、その谷を舞台に勢力を広げた秘密結社をめぐる、長い過去の物語が語りだされるのです。
この後半は、1860年代から70年代にかけて実在したアイルランド系の秘密結社「モリー・マグワイアズ」と、彼らに潜入したピンカートン探偵社の一件から、緩やかに着想を得たものとされています。名探偵の推理劇というよりは、潜入と組織犯罪、そして冒険の色合いが濃い。
読み手は、暖炉のあるロンドンの一室から、暴力の匂いの立ちこめる異郷の谷へと連れ去られ、まったく別種のスリルに身をさらすことになります。前後で肌ざわりの違うふたつの物語をひとつの表紙に収めた構えは、第1作『緋色の研究』が取った二部構成の系譜に連なるものです。
読みどころ
読みどころは、性格の異なるふたつの物語を、ひとつの長編として味わえるところにあります。 前半は堀と跳ね橋に守られた屋敷を舞台にした、英国本格の完成された佇まい。
後半は谷の底から立ちのぼる、社会派ノワールにも通じる暗い厚み。ひとりの作家がこれほど違う筆致を並べて一冊に仕立てたこと自体が、まず読みごたえです。
もうひとつ、この長編には宿敵の影が差しています。モリアーティ教授。
事件の背景にその存在が色濃く意識され、ホームズが彼の組織を強く警戒する描写が、随所に立ちのぼります。教授の名がどのように事件と関わってくるのか——その気配を追いながらページを繰るのは、シリーズを追ってきた読者にとって格別の楽しみでしょう。
長編四作の掉尾にして、正典全体の年代記の中に本書をどう位置づけるかは、古くから読者を惹きつけてきた問いでもあります。
名探偵の推理に正面から身を委ねたい読者にも、実在の事件に材を採った組織犯罪ものの手ざわりを求める読者にも、この一冊は応えてくれます。逆に、終始ひとつのトーンで貫かれた端正な謎解きだけを期待して開くと、後半の大きな転調に少し戸惑うかもしれません。
けれどもその落差こそ、本書が長く愛読されてきた理由そのものです。異なる二枚の絵を継ぎ合わせた構図を、まるごと楽しめる読者にこそ向いています。
手に取るなら
入手はたやすく、創元推理文庫(深町眞理子訳)、光文社文庫(日暮雅通訳)、新潮文庫(延原謙訳)、角川文庫(駒月雅子訳)などが現役で、電子書籍版もそろっています。創元版には戸川安宣による解題と、北原尚彦による解説が添えられています。
新訳系はいずれも現代の読者向けに読みやすく整えられているので、初めてホームズの長編に触れる方も安心して手に取れます。本書を読み終えれば、ホームズが活躍する四つの長編を、いよいよその最後の一作まで見届けたことになります。