妻も勝手に動き出す。
NかMか
大戦下の英国で夫婦がスパイ狩りに挑む。トミー&タペンスの軽妙な冒険譚。
名探偵が書斎に腰を据えて謎を解く物語ではありません。ここにいるのは、任務を帯びて自ら敵地へ飛び込んでいく夫婦です。
アガサ・クリスティーが第二次世界大戦のさなかに書いた『NかMか』は、机上の推理劇とは趣をがらりと変え、当意即妙の掛け合いとスパイ狩りのスリルで一気に読ませる冒険ミステリです。主役はトミーとタペンス。
危険の只中を、二人はどこか楽しげに、そして抜け目なく駆け抜けていきます。
トミー&タペンスは、クリスティーが手がけた探偵役のなかでも一風変わった存在です。孤高の名探偵がひとりで君臨するのではなく、夫婦が二人三脚で事件に向き合う。
互いの手の内を読み合い、時には張り合い、じれったく思いながらも、いざとなれば見事に息を合わせて危機を切り抜けていく——そんな関係の妙こそが、このコンビ最大の持ち味です。推理の切れ味だけで読ませる物語とは違い、二人の会話そのものが物語を運んでいく。
読者は事件を追いながら、同時にこの夫婦の人となりに親しんでいくことになります。
本書が刊行されたのは1941年。まさに英国が戦争の渦中にあった時期であり、物語の背景にも、その張り詰めた空気がそのまま流れ込んでいます。
平時の名門邸を舞台にした優雅な謎解きとは違う、時代と地続きの緊迫感。銃後の日常のすぐ隣に敵の影が忍び寄っているという不安が、そのまま作品の骨格になっています。
それがこの一編に、他のクリスティー作品とはまた別の、独特の手触りを与えているのです。
物語の入り口
物語は、一つの密命から動き出します。舞台は大戦下の英国。
情報部から、暗号名「N」と「M」で呼ばれるナチスの大物スパイを見つけ出せ、という重い任務がトミーに託されます。手がかりとして示されるのは、海辺の下宿宿サンスーシ。
そこに集う滞在客のなかに、そのスパイが素知らぬ顔で紛れ込んでいるというのです。トミーは妻タペンスには何も告げず、ひそかに任地へと発ちます。
危険な仕事に妻を巻き込むまいという、夫なりの気遣いだったのでしょう。ところが、黙って見送るタペンスではありません。
一筋縄でいかない彼女は、騙されたふりをして、いつのまにか夫の先を行っている。こうして二人は、それぞれの思惑を胸に、大規模なナチス・スパイ網のただ中へと飛び込んでいくことになります。
海辺の穏やかな下宿宿という、いかにものどかな舞台。けれど、その食堂に集う顔ぶれのなかに、国家を揺るがしかねない大物が潜んでいるかもしれない——そう思って眺めた瞬間、平和な風景は一変します。
その大物が、素知らぬ顔で食卓に加わっているのかもしれない。読者は、トミーとタペンスと同じ視線で下宿宿の日々を見渡し、のどかな風景のうしろにひそむ緊張を、二人とともに味わうことになります。
海辺の保養地ののんびりとした空気、下宿宿ならではの馴れ合いと詮索、そのすべてが、いつしか意味ありげなものに見えてくる。日常の平穏と非常時の危険が同じ屋根の下に同居している——この舞台設定の妙が、物語の入り口から読者を捉えて離しません。
任務を帯びた二人が、その平穏を装いながら少しずつ核心へと近づいていく道行きを、読者は固唾を呑んで見守ることになるのです。
読みどころ
この作品の醍醐味は、謎解きのスリルと、夫婦の軽妙な掛け合いが分かちがたく絡み合っているところです。 相手の正体を探るという神経戦のさなかにあっても、トミーとタペンスのやりとりはどこか可笑しく、テンポがいい。
緊迫と諧謔が同じページの上で共存しているのです。名探偵の論理に静かに身を委ねる楽しみとはまた別の、行動と機転でぐいぐい先へ進んでいく物語の推進力。
ページをめくる手が止まらないという読み味は、この牽引力の賜物です。危機の連続にあっても、どこか楽しげな呼吸が絶えないのも、この二人が主役だからにほかなりません。
逆境を前にしても軽口を忘れない夫婦の胆力が、この物語の底を支えています。
正統派の館ものや、腰を据えたフーダニットを期待して開くと、その色合いの違いに少し戸惑うかもしれません。細かな手がかりを一つずつ拾い上げていく推理の積み上げよりも、事態がどう転がっていくかというスリルが物語を引っ張るからです。
けれど、肩の力を抜いて楽しめる冒険譚を求めるなら、これほど心地よい一冊もそうそうありません。魅力的な夫婦コンビの掛け合いに、しばし身を任せてみたい読者には、まっすぐ薦められます。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫(2004年刊)です。巻末には渡辺武信による解説も収録されており、作品の背景や読みどころを、いっそう深く味わわせてくれます。
トミー&タペンスという、クリスティー作品のなかではやや見過ごされがちな夫婦探偵の魅力を知るうえで、格好の入り口になってくれる一編です。緊張と笑いが同居する、戦時下の英国を駆け抜ける冒険の旅へ、気軽に足を踏み入れてみてください。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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