ミステリーとしての読みどころ
クリスマスの朝、寒村の丁字路。そこに立つT字形の道標に、首を切断された死体がはりつけにされている——『エジプト十字架の謎』は、一度見たら忘れられない一枚の絵から幕を開けます。
1932年に発表された〈国名シリーズ〉第五弾。この酸鼻きわまる光景を出発点に、名探偵エラリーが最後まで論理だけで押し切っていく、本格ミステリの金字塔と呼ばれてきた一作です。
著者について
エラリー・クイーンは、一人の作家の名前ではありません。フレデリック・ダネイ(1905-82)とマンフレッド・B・リー(1905-71)、いとこ同士の二人が共有した合作ペンネームです。
二人は1929年、出版社が募ったコンテストに長編『ローマ帽子の謎』を投じてデビューしました。同書に始まるのが、タイトルに国名を掲げる〈国名シリーズ〉。
さらに彼らは、当初バーナビー・ロスという別名義を用いて、ドルリー・レーンを主役とする四部作も並行して送り出しています。二枚看板でミステリ界に不動の地位を築き、のちにダネイは雑誌〈エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉を通じて多くの書き手を世に送り出し、研究者・アンソロジストとしても足跡を残しました。
「アメリカの推理小説そのもの」とまで評された巨匠中の巨匠。その〈国名シリーズ〉のなかでも、一、二を争う人気作として読み継がれてきたのが本書です。
物語が動き出すのは、クリスマスの朝です。一年でもっとも穏やかであるはずの朝、静まり返った寒村で、道が二手に分かれる丁字路に、T字形の道標が立っています。
そして、その道標に、首を切断された死体がはりつけにされている。掲げられた死体は、道標とそっくり同じ「T」の字をかたどっていました。
丁字路、T字形の道標、T字型の死体。三つの「T」が、冬の朝の光の下に静かに重ね置かれている——見立て、という言葉ではとても足りません。
酸鼻としか呼びようのない一枚の絵が、いきなり読者の正面に据えられます。
この光景の前に立ったエラリーが注目するのは、犯人の影より先に、まず「T」という形そのものです。これは何かを意味しているのか。
そこを見きわめないかぎり、事件のどこにも手が届かない。ところが図形のほうは、いくら見つめても何ひとつ説明してくれません。
異様な絵柄を突きつけられたまま、読者はエラリーとともに、意味の分からない一点だけを握らされることになります。
しかも惨劇は、この寒村だけで終わりません。半年後、遠く離れた土地で第二の首なし殺人が起きたことを知ったエラリーは、ただちに現地へ駆けつけ、本格的に捜査へ乗り出していきます。
ひとつの村に閉じていたはずの事件が、半年という時間を跳び越え、地図の上を大きく移動しはじめる。読者に与えられている材料は、あいかわらず「T」という奇怪な形だけ。
その一点が遠隔の第二の事件とどう繋がるのか、見当もつかないまま、名探偵の足取りに付き従って土地から土地へ引き回されることになります。この落ち着かない道連れの感覚こそ、本作が今日まで語り継がれてきた大きな理由でしょう。
読みどころ
読みどころは、これほど強烈な絵柄を掲げながら、その始末を最後まで論理で付けてしまうところです。 幕切れの手前には、〈国名シリーズ〉恒例の「読者への挑戦」が挟まれます。
必要な手がかりはすべて示した、あとは解く番だ——という宣言です。つまり本作の見立ては、雰囲気を盛るための装飾ではありません。
解かれるために組み上げられた、一個の設問なのです。
出版社は本書の真相を「驚天動地」と呼びます。しかもその驚きは、読者を出し抜くための反則の上には立っていません。
すでに紙の上に置かれた材料だけで、あの絵柄の答えには到達できる。乱暴なほど扇情的な入り口と、精密機械のように噛み合った出口。
この落差の大きさが、〈国名シリーズ〉屈指の人気を本書にもたらしたのだと言えます。
探偵の推理にすっかり身を預けて読むのが好きな人、そして「解けるものなら解いてみろ」と正面から挑まれたい人には、これ以上ない一冊でしょう。ただし、扱われる事件は冒頭が告げるとおり残酷で、そこに情緒的な慰めはほとんど用意されていません。
酸鼻な素材を、冷たく澄んだ論理で淡々と処理していく手つきそのものが本作の芸です。人物の内面をゆっくり味わうタイプの小説を求める向きには、いささか素っ気なく映るかもしれません。
裏を返せば、黄金期の探偵小説をまず一冊だけ試してみたいという人にとって、強烈な引きと厳密なフェアプレイを兼ね備えた本書は、格好の入り口になります。
手に取るなら
入手に苦労はありません。創元推理文庫に中村有希の新訳が入っています。
中村有希は1968年生まれ、東京外国語大学を卒業した英米文学翻訳家で、ウォーターズ『半身』『荊の城』、マゴーン『騙し絵の檻』、ソーヤー『老人たちの生活と推理』などの訳書で知られる書き手。この訳者はシリーズ第一作『ローマ帽子の謎』も手がけていますから、デビュー作から本書までの三年でクイーンがどこまで来たのかを、同じ声で辿ってみることもできます。
巻末には山口雅也による解説を収録。〈国名シリーズ〉のどれから読むべきか迷ったなら、本書を選んで後悔することは、まずありません。