眠りの森
刑事になった加賀恭一郎が、バレエ団の正当防衛事件と自らの恋心のあいだで揺れる
張りつめた稽古の日々と、舞台の上のほんの一瞬の輝き。そんな世界に身を置く人々のただなかへ、ひとりの若い刑事が踏み込んでいきます。
学生として初めて事件に向き合った加賀恭一郎が、警視庁捜査一課の刑事となって帰ってくるのが本作です。
物語の入り口
事件が起きるのは、名門として知られる高柳バレエ団。忍び込んできた男が、団に所属する女性ダンサーの手で命を落とします。
彼女は襲われたので身を守っただけだと訴え、バレエ団の側もその言葉を疑おうとしません。
本人が名乗り出ていて、正当防衛という説明もついている。一見すると、片づけるのにさほど手間のかからない一件です。
ところが捜査を進めるうちに、すんなりとは飲み込めない点がいくつも浮かび上がってきます。
関係者のもとへ足を運ぶ加賀は、そのなかで出会ったひとりのバレリーナに、少しずつ心を惹かれていきます。事件を見つめる目と、彼女を見つめる目。
その二つが、物語の進む方向を静かに揺らしはじめます。
読みどころ
謎を追う刑事が、同時に恋をしてしまう。その危うい二重写しが、本作の読み心地を決めています。
加賀は冷静に観察を重ねながらも、心を寄せた相手が事件の渦中にいる人だという事実から目をそらすことができません。真相に近づくことが、そのまま大切なものを遠ざけることになるかもしれない。
その緊張が、ページを繰る手にじわりと重さを加えていきます。
謎の立ち上がり方にも工夫があります。手を下した人物も、そうなった理由も、表向きにはすでに語られています。
それでも残る小さな違和感を、ひとつずつ拾い上げていく。派手な不可能状況で目を奪うのではなく、ささいなほころびから全体の形を問い直していく運びは、地道な捜査をじっくり味わいたい読み手にこそ響くはずです。
舞台となるバレエ団は、限られた人間だけが内側を知る、閉じた共同体でもあります。外から来た刑事がその輪の内側をどこまで見通せるのか。
加賀の視線を借りて、華やかさの裏側をのぞき込むような読書になります。
こんな人におすすめ
大きな仕掛けよりも、聞き込みと観察を積み重ねて真相へ迫っていく捜査小説が好きな人に向いています。探偵役の人物像そのものに関心があり、謎解きと並んで主人公の心の動きも味わいたい人なら、加賀という刑事の素顔に出会える本作はきっと手放せない一冊になるでしょう。
芸術の世界を舞台にした物語に惹かれる人にもおすすめです。
作品の背景
加賀恭一郎シリーズの第2作で、初刊は1989年5月、講談社。大学のキャンパスを舞台にした『卒業』から一転して、加賀は職業として事件に向き合う立場になりました。
シリーズをこの順に読むと、ひとりの人物が探偵役として形づくられていく過程が見えてきます。
2014年1月2日には、阿部寛主演のドラマとしてTBS系で放送されました。映像で加賀に親しんだ人が原作へさかのぼる入口としても、手に取りやすい一冊です。
手に取るなら
現在読める版は講談社文庫で、1992年4月に文庫化されています。読み終えたら、シリーズ第3作『どちらかが彼女を殺した』へ進むと、刑事・加賀のその後を追いかけられます。
東野圭吾について
東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。
翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。
長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。
刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。
書誌情報
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