ミステリーとしての読みどころ
独立を目前にした国の、まだ誰も歩いたことのない場所に立たされた女性がいます。インド初の女性警部ペルシス・ワディア。
『帝国の亡霊、そして殺人』は、旧宗主国が去りゆく混沌のボンベイで、彼女が英国外交官殺害という厄介きわまりない事件に挑む歴史ミステリです。時代が大きく傾いていく音と、その傾きの中でひとり踏ん張るヒロインの声が、謎解きと分かちがたく絡み合っています。
著者について
著者のヴァシーム・カーンは、インドを舞台にしたミステリを書き続けてきた作家です。本書はマラバー・ハウス・シリーズの第1作にあたり、英国推理作家協会(CWA)のヒストリカル・ダガー賞を2021年に受賞しました。
歴史ミステリに贈られるこの賞を得たという事実が、まず作品の格を静かに保証してくれます。英国支配からの独立という、教科書では数行で片づけられてしまう転換期。
その数行の裏側に、どれほどの遺恨と昂揚と混乱が渦巻いていたのか——カーンはそこへ、女性警部という当時ほとんどありえなかった視点を差し込みます。邦訳は2023年、ハヤカワ・ポケット・ミステリから刊行されました。
物語の幕が上がるのは、1949年の大晦日。共和国化を目前にしたインド・ボンベイの、華やかなパーティーの夜です。
年が改まればこの国は正式に共和国となる——誰もがその予感に浮き立ち、あるいは身構えている、そんな特別な一夜。街の空気は、祝祭の高揚と、旧い秩序が崩れていく不安とで、奇妙にひりついています。
ところがその只中で、英国外交官ジェームズ・ヘリオット卿が殺害されます。深夜のパーティー、招かれた客が行き交う邸宅。
犯行現場に踏み込んでみれば、金庫は空。そして殺されたジェームズ卿の上着からは、暗号めいたメモが一枚見つかります。
何かが盗まれ、そして何かが遺されている。祝祭の只中で起きたこの事件は、最初のひと目から、どこかただならぬ気配をまとっています。
この難物の捜査を任されるのが、ペルシス・ワディアです。インドで初めて警部となった女性。
しかしその肩書きは、誇りであると同時に、行く先々で彼女に向けられる不信と偏見の的でもあります。女がなぜ現場にいるのか、女に何ができるのか——警察組織の内でも外でも、彼女はそうした無言の(ときにあからさまな)圧力を浴びながら、それでも足を止めずに真実へ近づいていきます。
同僚の視線、上層部の思惑、事件そのものが帯びる政治的な重さ。そのどれもが彼女の行く手を阻もうとしますが、明敏な頭脳と不屈の精神は、そうした逆風のなかでこそ際立っていきます。
独立運動の遺恨と共和国化の混沌が渦巻く街で、旧宗主国の要人が殺されたという事件は、いつ国家を揺るがす大事件へ膨れ上がってもおかしくない。その火薬庫のような案件を、最も立場の弱い捜査官が背負わされる。
この配置そのものが、読み手をぐっと前のめりにさせます。
読みどころ
読みどころは、謎解きと時代描写が別々の見せ場ではなく、ひとつの緊張として溶け合っているところにあります。 ペルシスが偏見をはねのけながら証言を集め、暗号の意味を探る一歩一歩は、そのまま独立直後のインド社会の断面を照らし出していきます。
誰がヘリオット卿を殺したのか。その問いを追う道すがら、激動の時代の空気が濃密に立ちのぼってくる。
ミステリとしての手がかりを追う楽しみと、歴史の生々しい手触りを味わう楽しみを、一冊で同時に得られる作りになっています。加えて、逆境に立たされてなお折れないヒロイン像が、事件を追う推進力そのものになっている点も見逃せません。
多くの歴史ミステリが過去を懐古的に眺めるのに対して、本書は独立直後という一度きりの瞬間を、そこに生きる人々の体温ごと現在形で立ち上げてみせます。読者は安全な後世から傍観するのではなく、これから何が起きるのか誰にもわからない時代のただ中に、ペルシスと並んで立たされることになります。
この臨場感こそが、ヒストリカル・ダガー賞に選ばれた作品の底力なのだと納得させられるはずです。
こんな人におすすめ
相性で言えば、密室や物理トリックの精緻な解体だけを目当てにすると、力点の置きどころが少し違うと感じるかもしれません。本書の重心は、時代の空気と主人公の生き方に厚く配分されています。
逆に、異国の歴史そのものを旅するように味わいたい読者、逆境をはねのけて進む主人公に肩入れしながら読みたい読者には、まっすぐ届く一冊でしょう。舞台となる土地や時代になじみがなくても心配はいりません。
混沌のボンベイという未知の場所こそが、この物語のいちばんの魅力なのですから。
手に取るなら
入手はハヤカワ・ポケット・ミステリ版で。マラバー・ハウス・シリーズの記念すべき第1作ですから、ペルシス・ワディアという主人公が気に入ったなら、続く事件簿を追っていく楽しみが待っています。
異国情緒にあふれた歴史ミステリへの入り口として、申し分のない出発点となる一冊です。