ミステリーとしての読みどころ
雨のそぼ降るストックホルムの夜。走行中の市バスの車内で乗客が銃撃され、多数の犠牲者が出る——『笑う警官』は、この大量殺人の一夜から幕を開ける警察小説です。
しかも犠牲者の中には、よりにもよって非番の若い殺人課刑事の姿がありました。彼はなぜ、そのバスに乗っていたのか。
閃きひとつで謎を切り裂く名探偵は、この物語には登場しません。あるのは刑事たちの足と根気、そして組織としての捜査だけ。
それだけを頼りに、途方もない事件の真相へと一歩ずつ歩いていく物語です。
著者について
作者はマイ・シューヴァルとペール・ヴァールー。二人の共作による〈マルティン・ベック〉シリーズは、スウェーデン警察の刑事マルティン・ベックを主人公とする連作で、本書(原題 Den skrattande polisen)は1968年に発表された第4作にあたります。
シリーズの中でも本作の評価はひときわ高く、英訳版はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞・最優秀長編賞を受賞。ストックホルムの刑事たちの物語が、英訳を経て海の向こうの読者と選考委員の心まで捉えたことになります。
派手な事件そのものではなく捜査の過程を丹念に描き、その積み重ねから社会の姿を浮かび上がらせる手法は、後の警察小説や北欧ミステリの原型と評されてきました。いま読まれている北欧ミステリの系譜をさかのぼれば、この一冊に行き着きます。
警察小説の金字塔という呼び名は、伊達ではありません。
物語の入り口
物語は、雨の降りしきる夜のストックホルムで動き出します。市街を走行中の市バス。
その車内で乗客が銃撃され、多数の犠牲者が出るという大量殺人が起きます。日々の暮らしの足であるはずの市バスが、一夜にして惨劇の現場へ変わる——この立ち上がりの不条理が、まず強烈です。
しかも唯一の生き証人となるはずだった人も亡くなり、あの夜、車内で何が起きたのかを語れる者はもう誰も残っていません。誰が、何のために、市バスの乗客へ銃口を向けたのか。
捜査は最悪の条件から始まることになります。
そして現場は、捜査陣にもうひとつの謎を突きつけます。犠牲者の中に、殺人課の若い刑事が交じっていたのです。
その夜、彼は非番でした。職務でないのなら、なぜそのバスに乗っていたのか。
彼は何かを追っていたのか——追っていたとすれば、いったい何を。何を追っていたにせよ、それを語れる本人はもういないのです。
同僚の名を犠牲者の列に見いだしてしまった刑事たちにとって、この事件は最初から他人事ではありません。
手がかりが乏しい以上、打てる手はひとつしかありません。マルティン・ベックと捜査班は、被害者ひとりひとりの身元と過去を、端から洗い直していきます。
その人はどこの誰で、どんな暮らしを送り、誰と関わって生きてきて、なぜあの夜、あのバスに乗り合わせたのか。地道な聞き込みが積み重なるにつれ、行きずりの乗客にすぎなかったはずの人々の人生が、少しずつ輪郭を帯びていきます。
読者はベックたちのすぐ後ろに立たされ、彼らがつかんだことだけを、彼らと同じ速度で知っていくことになります。近道も、神の視点もない。
その焦れったささえ、いつしか物語の緊張へ変わっていきます。一見遠回りに見える聞き込みの一つひとつがやがてどこへ通じるのか、ページを繰るうちに、気づけば刑事たちと同じ執念に感染しているはずです。
読みどころ
読みどころは、捜査の手触りだけで物語を牽引しきる筆力にあります。 天才の推理が一瞬で霧を晴らすのではなく、靴底をすり減らす聞き込みと確認作業の反復が、少しずつ事件の見え方を変えていく。
しかもその捜査は、被害者たちが生きていた社会を切り取る断面図にもなっていて、事件を追うことがそのまま人間と街を見つめることにつながっています。雨に沈む夜の街から立ち上る陰影もまた、この作品の忘れがたい読み味です。
派手さを禁じ手にしたまま、これほどの緊張を持続させる小説はそう多くありません。警察小説や北欧ミステリを日頃から読んでいる人ほど、随所で「ここが源流か」と手を打つことになるはずで、ジャンルの原点を体感できるという意味でも得がたい読書になります。
こんな人におすすめ
相性をいえば、一撃の大トリックや息もつかせぬ急展開を求める読者には、この歩みは地味に映るかもしれません。本作の愉しみは、派手な見せ場ではなく、捜査という営みの手応えの側。
一晩で消費する興奮よりも、読後に長く残るものを求める読者向きです。事件だけでなく刑事たちの日常や組織の空気ごと味わいたい読者、現代の警察小説や北欧ミステリの源流に触れてみたい読者には、迷わず薦められる一冊です。
手に取るなら
現在の版は角川文庫(2013年刊)。〈マルティン・ベック〉シリーズの第4作にあたりますが、シリーズ屈指の一作と目される本作からこの世界の扉を叩くのも、十分に魅力的な選択です。
気に入れば、ここからシリーズの前後の作品へ手を伸ばす楽しみも待っています。雨のストックホルムから始まる執拗な捜査の物語は、半世紀あまりを経た今もまったく古びていません。