死者の中に非番の刑事。
笑う警官
市バス車内での大量殺人。犠牲者の中になぜか同僚刑事が。シリーズ屈指の一作。
雨のそぼ降るストックホルムの夜。走行中の市バスの車内で乗客が銃撃され、多数の犠牲者が出る——『笑う警官』は、この大量殺人の一夜から幕を開ける警察小説です。
しかも犠牲者の中には、よりにもよって非番の若い殺人課刑事の姿がありました。彼はなぜ、そのバスに乗っていたのか。
閃きひとつで謎を切り裂く名探偵は、この物語には登場しません。あるのは刑事たちの足と根気、そして組織としての捜査だけ。
それだけを頼りに、途方もない事件の真相へと一歩ずつ歩いていく物語です。
物語の入り口
〈マルティン・ベック〉シリーズは、スウェーデン警察の刑事マルティン・ベックを主人公とする連作です。物語は、雨の降りしきる夜のストックホルムで動き出します。
市街を走行中の市バス。その車内で乗客が銃撃され、多数の犠牲者が出るという大量殺人が起きます。
日々の暮らしの足であるはずの市バスが、一夜にして惨劇の現場へ変わる。この立ち上がりの不条理が、まず強烈です。
しかも唯一の生き証人となるはずだった人も亡くなり、あの夜、車内で何が起きたのかを語れる者はもう誰も残っていません。誰が、何のために、市バスの乗客へ銃口を向けたのか。
捜査は最悪の条件から始まることになります。
そして現場は、捜査陣にもうひとつの謎を突きつけます。犠牲者の中に、殺人課の若い刑事が交じっていたのです。
その夜、彼は非番でした。職務でないのなら、なぜそのバスに乗っていたのか。
彼は何かを追っていたのか——追っていたとすれば、いったい何を。何を追っていたにせよ、それを語れる本人はもういないのです。
同僚の名を犠牲者の列に見いだしてしまった刑事たちにとって、この事件は最初から他人事ではありません。
手がかりが乏しい以上、打てる手はひとつしかありません。マルティン・ベックと捜査班は、被害者ひとりひとりの身元と過去を、端から洗い直していきます。
その人はどこの誰で、どんな暮らしを送り、誰と関わって生きてきて、なぜあの夜、あのバスに乗り合わせたのか。地道な聞き込みが積み重なるにつれ、行きずりの乗客にすぎなかったはずの人々の人生が、少しずつ輪郭を帯びていきます。
読者はベックたちのすぐ後ろに立たされ、彼らがつかんだことだけを、彼らと同じ速度で知っていくことになります。近道も、神の視点もない。
その焦れったささえ、いつしか物語の緊張へ変わっていきます。一見遠回りに見える聞き込みの一つひとつがやがてどこへ通じるのか、ページを繰るうちに、気づけば刑事たちと同じ執念に感染しているはずです。
読みどころ
読みどころは、捜査の手触りだけで物語を牽引しきる筆力にあります。 天才の推理が一瞬で霧を晴らすのではなく、靴底をすり減らす聞き込みと確認作業の反復が、少しずつ事件の見え方を変えていく。
しかもその捜査は、被害者たちが生きていた社会を切り取る断面図にもなっていて、事件を追うことがそのまま人間と街を見つめることにつながっています。雨に沈む夜の街から立ち上る陰影もまた、この作品の忘れがたい読み味です。
派手さを禁じ手にしたまま、これほどの緊張を持続させる小説はそう多くありません。警察小説や北欧ミステリを日頃から読んでいる人ほど、随所で「ここが源流か」と手を打つことになるはずで、ジャンルの原点を体感できるという意味でも得がたい読書になります。
こんな人におすすめ
相性をいえば、一撃の大トリックや息もつかせぬ急展開を求める読者には、この歩みは地味に映るかもしれません。本作の愉しみは、派手な見せ場ではなく、捜査という営みの手応えの側。
一晩で消費する興奮よりも、読後に長く残るものを求める読者向きです。事件だけでなく刑事たちの日常や組織の空気ごと味わいたい読者、現代の警察小説や北欧ミステリの源流に触れてみたい読者には、迷わず薦められる一冊です。
作品の背景
『笑う警官』(原題 Den skrattande polisen)は、1968年に発表された〈マルティン・ベック〉シリーズの第4作にあたります。派手な事件そのものではなく捜査の過程を丹念に描き、その積み重ねから社会の姿を浮かび上がらせる手法は、後の警察小説や北欧ミステリの原型と評されてきました。
日本では1972年に、英訳版をもとにした高見浩の訳で角川文庫から出ています。1973年にはアメリカで、舞台をサンフランシスコに移した映画(邦題『マシンガン・パニック』)も作られました。
手に取るなら
現在の版は2013年の角川文庫で、柳沢由実子がスウェーデン語から直接訳し直した新訳です。シリーズの途中の巻ではありますが、屈指の一作と目される本作からこの世界の扉を叩くのも、十分に魅力的な選択です。
気に入れば、ここからシリーズの前後の作品へ手を伸ばす楽しみも待っています。雨のストックホルムから始まる執拗な捜査の物語は、半世紀あまりを経た今もまったく古びていません。
マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールーについて
マイ・シューヴァル(1935〜2020)とペール・ヴァールー(1926〜1975)は、スウェーデンの作家です。ヴァールーは事件記者から出発したジャーナリストで、のちに小説も書くようになり、シューヴァルは出版社に勤めていました。
公私のパートナーとなった二人は、ストックホルムの警察を舞台に、刑事マルティン・ベックとその同僚たちを描く警察小説を、はじめから全十作と決めて書き始めます。1965年の『ロセアンナ』から1975年の最終作まで、一年に一作ほどの歩みで書き継がれました。
事件の捜査を追いながら、同時代のスウェーデン社会の空気が硬くなっていくさまを描き込んだのがこの連作の特徴です。第4作『笑う警官』の英訳は、1971年にアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞長編賞を受けています。
ヴァールーは最終作を書き終えた1975年に世を去り、シューヴァルはその後も翻訳や執筆を続けました。
書誌情報
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