現代国内 1995
死んだ兄の正しさを、
目の見えない妹が証明した。
『天使の耳』東野圭吾

書評

天使の耳

交通事故の一瞬を六つの角度から。日常の道路で人生が一変する連作集。

目次

深夜の交差点で、衝突事故が起きました。信号を無視したのは、どちらの車か。

死んだドライバーの車には妹が同乗していましたが、少女は目が不自由でした。それでも彼女は、交通警察官も経験したことがないような驚くべき方法で、兄の正当性を証明する。

『天使の耳』の表題作は、証言できるはずのない証人という状況から始まります。交通事故だけを素材にした全六篇の連作短編集で、1992年に『交通警察の夜』の題で世に出て、文庫化の際に改題されました。

日常起こりうる交通事故がもたらす、人々の運命の急転。それを短編の精度で切り取った一冊です。

物語の入り口

表題作の舞台は、深夜の交差点です。二台の車が衝突し、一方のドライバーが死亡しました。

争点は、ただひとつ。信号を無視したのは、どちらの車か。

交差点の事故では、どちらが青だったかで、責任の所在が決まります。死んだドライバーが信号無視をしていたのなら、彼は加害者として死んだことになる。

その車には、妹が同乗していました。証人がいる、と思いたいところですが、彼女は目が不自由です。

信号の色を見ていたはずがない。証言できるはずのない証人。

ところが少女は、交通警察官も経験したことがないような驚くべき方法で、兄の正当性を証明します。死んだ兄は、もう自分の言い分を語れない。

その言い分を、信号を見ていないはずの妹が引き受けるのです。信号の色を見ていない証人が、どうやって兄の側に立てるのか。

その問いだけで、表題作は最後まで読者を引っ張ります。

表題作以外の五篇も、素材は交通事故だけです。派手な連続殺人も、名探偵の名推理もありません。

あるのは、道路の上で毎日起きている、ごくふつうの出来事。それが、人々の運命を一瞬で急転させる。

誰もが知っている身近な条件から、東野圭吾は一篇ずつ論理を組み立てていきます。

読者は、事故の現場に立ち会う交通警察官の位置に立たされます。身近な状況から条件を積み上げて、何が起きたのかを確かめる。

派手な事件はありませんが、そのぶん、条件の一つひとつが重く効いてきます。

読みどころ

表題作は、証言できるはずのない証人が兄の正当性を証明するという、一点の不可能で読ませます。 目の不自由な少女に、交差点の信号の色がわかるはずがない。

それでも少女は、兄の側に立って事故の争点に答えを出します。どうやって、という問いがそのまま謎の芯になり、深夜の交差点という舞台は最後まで動きません。

謎の中心に死んだ兄と残された妹という関係が据えられているため、この一篇は信号の色をめぐる検証だけでは終わらず、失った家族の名誉を取り戻す話としても読めます。

もうひとつは、交通事故だけを素材にする、という縛りです。それでも六篇すべてが、条件から論理を組み立てるミステリとして成立している。

日常起こりうる出来事が人々の運命を急転させる。道路の上には、ミステリの素材がいくらでも転がっている。

こんな人におすすめ

どちらが青だったか、同乗者は何を知りえたかといった事故の条件から筋道を詰めていく短編を好む読者、日常の延長にある謎に惹かれる読者に向いています。車を運転する人には、なおさら身に沁みる一冊です。

ハンドルを握る手が、少し慎重になるかもしれません。六篇とも短く、一話ずつ区切って読み進められます。

逆に、派手な連続殺人や名探偵の名推理を期待して開くと、本作の素材の地味さに拍子抜けするかもしれません。地味さこそが、この短編集の持ち味です。

作品の背景

本作に収められた各篇は、1989年から1991年にかけて『週刊小説』に発表されたもので、まだ専業作家になって数年の時期の仕事です。六篇はそろって、交通事故という誰の身にも起こりうる出来事だけを素材にしています。

単行本は1992年1月、実業之日本社から『交通警察の夜』の題で刊行されました。この単行本は、第46回日本推理作家協会賞の短編および連作短編集部門の候補になっています。

1995年7月に講談社文庫へ入る際に『天使の耳』と改題され、284ページ。2023年3月にはNHKの4Kでドラマ『天使の耳〜交通警察の夜』が放送され、小芝風花と安田顕が出演しました。

手に取るなら

現行版は講談社文庫『天使の耳』。旧題『交通警察の夜』で探しても同じ本です。

2023年のNHKのドラマは『天使の耳〜交通警察の夜』と、新旧二つの題をつないだ題で放送されました。シリーズには属さない独立した短編集ですから、他の東野作品を読んでいなくても問題ありません。

読む順に決まりはありませんが、証言できるはずのない証人という設定がもっとも鮮やかな表題作から入ると、交通事故だけで六篇を組むという縛りの手ごたえが早くつかめます。

東野圭吾について

東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。

翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。

長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。

刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。

書誌情報

出版社
講談社
刊行年
1995
ISBN-13
9784062630160
系譜
現代国内 / 警察手続き · 連作短編
受賞歴

東野圭吾をもっと読む

全作品一覧へ →

似た読み味を、他の作家で

気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本

この本が登場する特集

この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

プロフィールを見る →