現代国内 2019
誰に聞いても善人。
その女が殺された。
『希望の糸』東野圭吾

書評

希望の糸

善人という評判しか手がかりのない、喫茶店の女主人の死。東京と金沢を往復する加賀シリーズの家族の物語。

目次

小さな喫茶店を営む女性が、殺されました。加賀と松宮が捜査しても、被害者に関する手がかりは、善人というだけ。

彼女の不可解な行動を調べると、ある少女の存在が浮上します。一方、金沢では一人の男性が息を引き取ろうとしていて、彼の遺言書には意外な人物の名前があった。

『希望の糸』は、加賀恭一郎シリーズの第11作。殺人事件の捜査という骨組みの上に、家族をめぐる物語を載せた一作です。

東京の小さな喫茶店と、死を迎えようとする男性のいる金沢。遠く離れた二つの場所を、物語は交互に行き来していきます。

事件の捜査と、一人の男性の最期が、並べて語られていきます。

物語の入り口

小さな喫茶店を営む女性が、殺されました。捜査にあたるのは、加賀と松宮です。

ところが、被害者の周辺を洗っても、手がかりが乏しい。出てくるのは、善人だった、という評判ばかり。

誰からも恨まれていない人が、なぜ殺されたのか。輪郭の定まらない被害者を前に、捜査は足踏みします。

善人、という言葉ほど、捜査の役に立たない評判はありません。

それでも、彼女には不可解な行動がありました。それを調べていくと、ある少女の存在が浮上します。

少女が誰なのか、被害者とどう繋がるのか。善人という評判の裏側に、彼女にしか知らない何かがあった。

その何かを、加賀と松宮は探っていきます。善人の評判と、少女の存在。

その二つが、どう繋がるのか。

一方、舞台は金沢に移ります。一人の男性が、息を引き取ろうとしていました。

彼は遺言書を残しています。その遺言書には、意外な人物の名前があった。

東京の喫茶店の女主人と、金沢で死を迎えようとしている男性。二つの場所、二つの流れが、交互に置かれていきます。

読者は、その二つのあいだを往復しながら読み進めることになります。

読者は、加賀と松宮の聞き込みについて回りながら、もう一方で金沢の静けさに立ち会うことになります。殺された女主人の日々と、遺言書を残した男性の最期。

二人の時間は、別々の場所で、それぞれの速さで流れています。捜査の進行と並行して、家族をめぐる物語が少しずつ組み上がっていく。

名探偵が一気に言い当てるのではなく、聞き込みと確認を往復しながら、希望の糸をたぐっていく物語です。

読みどころ

手がかりは善人という評判だけ。その被害者の姿が、聞き込みと確認を重ねるたびに一筆ずつ描き足されていきます。

恨まれていない人が殺される。その不可解さを、加賀と松宮は地道に解いていきます。

派手な推理はありません。聞いて、確かめて、また聞く。

その繰り返しのなかで、善人という言葉の裏側が少しずつ見えてきます。そのぶん、被害者という人が、少しずつ読者の前に立ち上がってくる。

捜査小説の手触りと、家族の物語の温度が、同じ歩幅で進みます。

もうひとつは、東京と金沢という二つの場所の置き方です。喫茶店の事件と、金沢の遺言書。

交互に置かれる二つの流れが、どこでどう結びつくのか。それを見届けることが、この長編を読む時間そのものです。

東京の側では聞き込みの声が重なり、金沢の側では死を前にした一人の男性の時間が流れる。場所が切り替わるたびに、物語の速度も変わります。

こんな人におすすめ

地道な捜査を味わいたい読者、家族の来歴をめぐる物語に心を動かされる読者に向いています。加賀恭一郎シリーズを順に読んでいる人には、第11作のこの巻でも、聞き込みを重ねていく加賀の手つきはそのままです。

加賀と松宮の組み合わせを好む人にも。逆に、意外な仕掛けや速い展開を求める気分のときには、東京と金沢を行き来しながら、人の輪郭を少しずつ浮かび上がらせていく運びが、もどかしく映るかもしれません。

その歩みの遅さこそが、家族の物語にはふさわしい。急がず、糸をたぐる速さで読んでください。

作品の背景

加賀恭一郎シリーズは1986年の『卒業』に始まり、本作がその第11作にあたります。刊行は2019年7月、講談社から。

2022年7月に講談社文庫に収められ、400ページ。刊行の年の『週刊文春ミステリーベスト10』では、国内部門の9位に入りました。

名探偵が一人で言い当てて幕、という形ではなく、聞き込みと確認を往復する捜査小説で、東京と金沢という二つの場所が交互に置かれる構成をとっています。

手に取るなら

現行版は講談社文庫。加賀恭一郎シリーズの第11作ですが、本作単独でも筋は追えます。

善人だった喫茶店の女主人と、金沢で遺言書を残した男性。二人が追い求めた希望の糸を、加賀と松宮とともにたぐってみてください。

東野圭吾について

東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。

翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。

長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。

刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。

書誌情報

出版社
講談社
刊行年
2019
ISBN-13
9784065286180
系譜
現代国内 / シリーズ探偵物 · 警察手続き
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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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