ミステリーとしての読みどころ
早朝の海辺に、ひとつの遺体が打ち上げられます。それも、当代きっての人気映画女優。
『ロウソクのために一シリングを』は、この不穏な発端から静かに立ち上がる黄金期英国の警察小説です。謎解きの骨格に、先の読めないサスペンスの呼吸が織り込まれていて、事件の正体が見えないまま、読者は冷たい波打ち際の朝へと引き込まれていきます。
著者について
作者のジョセフィン・テイは、後年に発表した異色作『時の娘』によって、ミステリ史に名を刻むことになる書き手です。寡作で知られる作家ですが、その一作ごとの完成度の高さは、いまなお英国ミステリの語り草になっています。
本作は、その「テイ」という筆名で発表された最初の長編にあたります。名声を決定づけた代表作より前、まだ「テイ」という署名が世に知られる以前に書かれた、いわば出発点の一冊です。
そしてこの出発点で、以後の作品にも登場するロンドン警視庁のアラン・グラント警部が、初めて表舞台に立ちました。のちにヒッチコックが「第3逃亡者」として映画化した原作、と言えば、その位置づけの確かさが伝わるでしょうか。
原著は一九三六年、黄金期の只中に世へ送り出されています。ひとりの作家の看板と、ひとりの名探偵の物語が、同時に幕を開ける——本作にはそういう二重の「はじまり」の輝きがあります。
物語の入り口
物語は、イングランド南部の海岸で幕を開けます。まだ人けのない早朝、波が運んできたのは、人気映画女優クリスティーン・クレイの溺死体でした。
まばゆいスクリーンの向こうにいたはずの華やかな存在が、朝の砂の上に横たわっている——その落差そのものが、まず読者の胸をざわつかせます。海に親しむ者が誤って命を落とすことは、めずらしくはありません。
事故死——そう片づけてしまえば、それで話は終わったのかもしれない。けれども、他殺の線もまた捨てきれないのです。
決め手を欠いたまま、捜査は事故と犯罪のあいだで宙吊りになります。読者もまた、どちらの岸にも足をつけられない不安定な足場に立たされたまま、頁をめくることになる。
その宙吊りをいっそう深くするのが、彼女が遺していた一枚の奇妙な言葉です。「兄にロウソクのために一シリングを」——およそ遺言らしからぬ、意味の掴めないその一句が、捜査陣を翻弄しはじめます。
なぜ、この文面なのか。手がかりであるはずの言葉が、かえって謎を厚くしていく。
この一件を託されるのが、ロンドン警視庁のアラン・グラント警部です。海辺の小さな町から始まった彼の調べに寄り添って、読者もまた事件の輪郭を少しずつ探っていくことになります。
読みどころ
本作の読みどころは、警察小説の手堅い骨格に、サスペンスの呼吸がしなやかに織り込まれているところです。 黄金期の英国ミステリというと、緻密なパズルの印象で語られがちですが、テイの筆はそこに、いつ足元が崩れるか分からない不安の手ざわりを重ねてきます。
事実を一つずつ確かめていく捜査の運びは、あくまで地に足がついている。それでいて、事故か他殺かの判断が揺れつづける宙吊りの緊張が、物語全体を薄く張りつめさせています。
謎解きの論理と、先の読めないサスペンスの手触りが、たがいを損なうことなく同居しているのです。
もうひとつ味わい深いのは、グラント警部という探偵の造形です。派手な閃きで真相を撃ち抜く名探偵ではなく、目の前の事実を丹念に拾い、人を見て、足で運ぶ捜査官。
奇矯なところのない、しかし観察の眼だけは油断なく働く彼の人柄が、この一作でくっきりと輪郭を結びます。天才的な名探偵が独りで真相を言い当てる図式とは違い、ここにいるのは、地道な聞き込みと積み重ねを信じる一人の職業人です。
その分だけ、事件の手触りは現実の捜査に近く、読者は絵空事ではない重みを感じながら頁を追うことになります。以後長く読み継がれるシリーズが、どんな探偵から、どんな事件から始まったのか。
その原点を知る愉しみもまた、本作には確かにあります。
華やかな名探偵の名推理よりも、地道な捜査の積み重ねが真相へ近づいていく手応えを好む読者に、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、密室や不可能犯罪の華麗な仕掛けを第一に求めて開くと、その静かな運びは少しもの足りなく映るかもしれません。
けれど、事件のかたちがゆっくりと定まっていくその過程にこそ、この作品の呼吸はあります。朝の海のように澄んでいながら底の知れない読み心地を、じっくりと味わいたい夜に似合う一冊です。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房のハヤカワ・ポケット・ミステリで読めます。邦訳は二〇〇一年の刊行。
名探偵アラン・グラント警部の出発点であり、『時の娘』へと連なるテイの世界に足を踏み入れる入り口としても、これ以上ふさわしい一作はそうありません。黄金期の英国が生んだ、静かで確かな手ごたえの一作です。
海辺のひとつの死から始まるこの謎に、ぜひじっくりと腰を据えて付き合ってみてください。