黄金期英国古典 1936
女優の死より奇妙なのは、
その遺言の中身だった。
『ロウソクのために一シリングを』ジョセフィン・テイ

書評

ロウソクのために一シリングを

海辺で見つかった女優の死。若きグラント警部が挑む、テイ名義第一作。

ロウソクのために一シリングを 表紙画像
ジョセフィン・テイ 早川書房(ハヤカワ・ポケット・ミステリ) 原書 1936年 · 邦訳 2001年
目次

早朝の海辺に、ひとつの遺体が打ち上げられます。それも、当代きっての人気映画女優。

『ロウソクのために一シリングを』は、この不穏な発端から静かに立ち上がる黄金期英国の警察小説です。謎解きの骨格に、先の読めないサスペンスの呼吸が織り込まれていて、事件の正体が見えないまま、読者は冷たい波打ち際の朝へと引き込まれていきます。

物語の入り口

物語は、イングランド南部の海岸で幕を開けます。まだ人けのない早朝、波が運んできたのは、人気映画女優クリスティーン・クレイの溺死体でした。

まばゆいスクリーンの向こうにいたはずの華やかな存在が、朝の砂の上に横たわっている——その落差そのものが、まず読者の胸をざわつかせます。海に親しむ者が誤って命を落とすことは、めずらしくはありません。

事故死——そう片づけてしまえば、それで話は終わったのかもしれない。けれども、他殺の線もまた捨てきれないのです。

決め手を欠いたまま、捜査は事故と犯罪のあいだで宙吊りになります。読者もまた、どちらの岸にも足をつけられない不安定な足場に立たされたまま、頁をめくることになる。

その宙吊りをいっそう深くするのが、彼女が遺していた一枚の奇妙な言葉です。「兄にロウソクのために一シリングを」——およそ遺言らしからぬ、意味の掴めないその一句が、捜査陣を翻弄しはじめます。

なぜ、この文面なのか。手がかりであるはずの言葉が、かえって謎を厚くしていく。

この一件を託されるのが、ロンドン警視庁のアラン・グラント警部です。海辺の小さな町から始まった彼の調べに寄り添って、読者もまた事件の輪郭を少しずつ探っていくことになります。

読みどころ

本作の読みどころは、警察小説の手堅い骨格に、サスペンスの呼吸がしなやかに織り込まれているところです。 黄金期の英国ミステリというと、緻密なパズルの印象で語られがちですが、テイの筆はそこに、いつ足元が崩れるか分からない不安の手ざわりを重ねてきます。

事実を一つずつ確かめていく捜査の運びは、あくまで地に足がついている。それでいて、事故か他殺かの判断が揺れつづける宙吊りの緊張が、物語全体を薄く張りつめさせています。

謎解きの論理と、先の読めないサスペンスの手触りが、たがいを損なうことなく同居しているのです。

もうひとつ味わい深いのは、グラント警部という探偵の造形です。派手な閃きで真相を撃ち抜く名探偵ではなく、目の前の事実を丹念に拾い、人を見て、足で運ぶ捜査官。

奇矯なところのない、しかし観察の眼だけは油断なく働く彼の人柄が、この一作でくっきりと輪郭を結びます。天才的な名探偵が独りで真相を言い当てる図式とは違い、ここにいるのは、地道な聞き込みと積み重ねを信じる一人の職業人です。

その分だけ、事件の手触りは現実の捜査に近く、読者は絵空事ではない重みを感じながら頁を追うことになります。以後長く読み継がれるシリーズが、どんな探偵から、どんな事件から始まったのか。

その原点を知る愉しみもまた、本作には確かにあります。

こんな人におすすめ

華やかな名探偵の名推理よりも、地道な捜査の積み重ねが真相へ近づいていく手応えを好む読者に、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、密室や不可能犯罪の華麗な仕掛けを第一に求めて開くと、その静かな運びは少しもの足りなく映るかもしれません。

けれど、事件のかたちがゆっくりと定まっていくその過程にこそ、この作品の呼吸はあります。朝の海のように澄んでいながら底の知れない読み心地を、じっくりと味わいたい夜に似合う一冊です。

作品の背景

本作は、ジョセフィン・テイという筆名で発表された最初の長編にあたります。名声を決定づけた代表作より前、まだ「テイ」という署名が世に知られる以前に書かれた、いわば出発点の一冊です。

そしてこの出発点で、以後の作品にも登場するロンドン警視庁のアラン・グラント警部が、初めて表舞台に立ちました。のちにヒッチコックが「第3逃亡者」として映画化した原作、と言えば、その位置づけの確かさが伝わるでしょうか。

原著は一九三六年、黄金期の只中に世へ送り出されています。ひとりの作家の看板と、ひとりの名探偵の物語が、同時に幕を開ける——本作にはそういう二重の「はじまり」の輝きがあります。

手に取るなら

いま手に取るなら、早川書房のハヤカワ・ポケット・ミステリで読めます。邦訳は二〇〇一年の刊行。

名探偵アラン・グラント警部の出発点であり、『時の娘』へと連なるテイの世界に足を踏み入れる入り口としても、これ以上ふさわしい一作はそうありません。黄金期の英国が生んだ、静かで確かな手ごたえの一作です。

海辺のひとつの死から始まるこの謎に、ぜひじっくりと腰を据えて付き合ってみてください。

ジョセフィン・テイについて

ジョセフィン・テイは1896年、スコットランド北部のインヴァネスに生まれ、1952年に亡くなりました。本名はエリザベス・マッキントッシュといいます。

イングランドの体育学校で学んで体育教師となり、父の看病のために教職を離れたあと、1929年にゴードン・ダヴィオット名義の『列のなかの男』でミステリ作家としての一歩を踏み出しました。同じ名義で書いたリチャード2世の史劇『ボルドーのリチャード』は1932年に初演され、ジョン・ギールグッド主演のロンドン公演で評判をとっています。

ミステリはロンドン警視庁のアラン・グラント警部を主人公とする6作の長編を柱に、『フランチャイズ事件』『魔性の馬』といったシリーズ外の作品を残しました。生涯に書いた長編は多くありませんが、グラント警部ものの一冊『時の娘』は歴史ミステリの古典として名が挙がり続けています。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・ポケット・ミステリ
原書刊行年
1936
邦訳刊行年
2001
ISBN-13
9784150017040
系譜
黄金期英国古典 / 警察手続き · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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