ミステリーとしての読みどころ
アイスランドの首都レイキャヴィク。北の湿地に建つ建物で、ひとりの老人が死体となって見つかります。
捜査にあたるのは、レイキャヴィク警察の犯罪捜査官エーレンデュル。手もとにあるのは、現場に残された謎めいたメッセージと、被害者がひそかに抱えていた過去だけです。
そこから、遠い時間の奥へと分け入っていく捜査が、静かに動き出す——世界中で1000万部を超えて読まれてきた北欧警察小説シリーズを、日本の読者が最初に手にした一冊が、この『湿地』です。
著者について
作者のアーナルデュル・インドリダソンは、1961年にレイキャヴィクで生まれました。父は高名な作家インドリディ・G・トーステンソン。
アイスランド大学で歴史学と映画を学び、新聞社勤めを経てフリーの映画評論家として活動したのち、1997年、犯罪捜査官エーレンデュルを主人公とするシリーズの第一作で小説家デビューを果たします。
その名を一気に押し上げたのが、シリーズの流れのなかから生まれた本作でした。北欧ミステリに贈られるガラスの鍵賞を受賞し、続く『緑衣の女』でも同賞を連続で射止める。
『緑衣の女』はさらに、英国推理作家協会のCWAゴールドダガー賞にも輝いています。シリーズは世界中で1000万部を突破し、インドリダソンはアイスランドを代表する作家として広く知られるようになりました。
日本語で読めるエーレンデュルの物語は、この『湿地』が出発点。原書ではシリーズ三作目にあたりますが、日本の読者にとっては、ここがすべての入り口になります。
物語の舞台は、寒々しい空気に沈むレイキャヴィクです。北の湿地に建つ建物の一室で、ひとりの老人が死体となって見つかる。
事件は、この静かな発見から動き出します。派手な導火線があるわけではありません。
あるのは、亡くなった老人と、その傍らに残された謎めいたメッセージ、ただそれだけ。閃きひとつで真相を言い当てる名探偵は、この物語には登場しません。
捜査官エーレンデュルに託されているのは、乏しい手がかりと、事実を一つずつ確かめていく根気、そして事件から目をそらさない粘り強さだけです。
彼がまず向き合うのは、被害者その人の来歴です。この老人は何者で、どんな日々を送り、誰と関わりながら生きてきたのか。
けれど、その答えはたやすくは見つかりません。被害者には、人に語られてこなかった過去があった——その隠された時間をていねいにたどり直すことが、事件を解く道になっていきます。
捜査は華やかな追跡劇ではありません。古い記録をあたり、人に会って話を聞き、遠い過去へと少しずつ遡っていく。
その地道な作業の反復が、事件の輪郭をゆっくりと描き変えていきます。
読者は、エーレンデュルのすぐ後ろに立たされます。神の視点も近道も与えられないまま、彼がつかんだ事実だけを、彼と同じ速度で受け取っていくことになります。
その一歩ずつの歩みが、いつしか捜査官の焦れったさと執念を、読み手の側にまで移してくる。版元は本作を「衝撃の犯人、肺腑をえぐる真相」と謳います。
その言葉の意味するところは、エーレンデュルと同じ歩幅で歩いた読者だけが受け取れるものです。
読みどころ
この作品の読みどころは、事件の派手さではなく、過去を手繰り寄せていく捜査そのものの手応えにあります。 天才の一閃が霧を晴らすのではなく、確認と聞き込みの積み重ねが、事件の見え方を少しずつ塗り替えていく。
その過程で立ち上がってくるのは、ひとりの人間が生きてきた時間の手ざわりです。事件を追うことが、そのまま誰かの人生をたどり直すことにつながっていく。
そこにこの小説の深みがあります。
もう一つの魅力は、物語ぜんたいに満ちるアイスランドの空気そのものにあります。寒々しい風土と、そこに生きる人々の陰影が、捜査の一歩ごとに立ちのぼってくる。
世界で1000万部を超えて読み継がれてきたシリーズが、最初に開いてみせた扉——その源流に、いちばん早い地点から触れられるという意味でも、得がたい一冊だといえます。
こんな人におすすめ
相性についても、正直に書いておきます。一撃の大トリックや、息もつかせぬ急展開をなにより求める読者には、この歩みはいくぶん静かに映るかもしれません。
本作の醍醐味は、驚きの見せ場よりも、捜査という営みそのものの手触りと、そこから匂い立つ土地と人の気配の側にあるからです。逆に、事件だけでなく捜査官の粘り強い足取りごと味わいたい読者、寒々しい北欧の情景にじっくり身を浸したい読者には、深く応えてくれるはずです。
ページをめくる速さよりも、読み終えたあとに長く残るものを大切にしたい人に向いています。
手に取るなら
現在の版は創元推理文庫、訳者は柳沢由実子です。柳沢はマンケルの『殺人者の顔』をはじめ、北欧ミステリの要となる作品を数多く日本語にしてきた翻訳家で、その訳文の確かさもまた本作を支えています。
日本語で読めるエーレンデュル捜査官シリーズは、この『湿地』が出発点。北欧警察小説の世界的な奔流がどこから流れ出したのかを、その最初の一滴から味わえる位置にある物語です。
まずはこの一冊から、レイキャヴィクの捜査官が過去を掘り起こす世界へ、足を踏み入れてみてください。