黄金期英国古典 1955
聴診器、電球、指輪。
この並びの意味は。
『ヒッコリー・ロードの殺人』アガサ・クリスティー

書評

ヒッコリー・ロードの殺人

ロンドン国際学生寮の脈絡なき盗難から邪悪な気配を嗅ぎ取るポアロ。寄宿舎ものの傑作

ヒッコリー・ロードの殺人 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1955年 · 邦訳 2004年
目次

聴診器、古びたフランネルのズボン、電球、チョコレートの箱、切り裂かれたリュックサック、そしてスープ皿の底に沈んだダイヤの指輪。何の値打ちも共通点もない品々が次々と消えていく学生寮の盗難リストを前に、名探偵エルキュール・ポアロはなぜか目を輝かせます。

「ユニークで美しい問題ですね」と。誰の目にもただの出来心にしか映らないものの並びに、彼だけが不吉なかたちを読み取るのです。

物語の入り口

舞台はロンドン、ヒッコリー・ロードに建つ学生寮です。アフリカ、インド、南米。

世界の各地から集まった若者たちが同じ屋根の下で暮らす、国際色豊かな下宿。戦後のロンドンが世界中の学生を迎え入れはじめた時代の手触りが、その一室一室にただよっています。

出自も言葉も肌の色も異なる若者たちが、食卓を囲み、廊下ですれ違い、それぞれの事情を胸にしまって日々を送る。ひとつの建物が、そのまま小さな世界の縮図になっているような場所です。

事の起こりは、ポアロの秘書ミス・レモンの様子でした。几帳面を絵に描いたようなこの秘書が、珍しく心配ごとを抱えている。

聞けば、寮母を務める姉のハバード夫人が、下宿で続く奇妙な盗難に頭を悩ませているというのです。消えたのは聴診器、古ズボン、電球、チョコレートの箱。

切り裂かれたリュックサックが見つかり、あろうことかスープ皿の底からはダイヤの指輪まで現れる。盗みというより、たちの悪い悪戯のようにも見える雑多な出来事が、寮のなかで続いていました。

ふつうなら、名探偵の食指が動くような事件ではありません。ところがポアロは、この盗品リストの「筋の通らなさ」そのものに引き寄せられていきます。

値打ちのある品も、二束三文の品も、区別なく消えている。それはただの出来心というには、あまりに不可解でした。

そして何より——ちっぽけな盗難騒ぎであるはずなのに、なぜ寮の誰もがこれほど怯えているのか。ポアロは探偵術の講義にかこつけてヒッコリー・ロードに足を運び、こまごました悪戯のなかにひそむ気配へと、静かに分け入っていきます。

読みどころ

この作品の妙味は、取るに足らない品々の一覧が、そのまま謎の中心にすえられているところにあります。 消えたものの並びに意味を見いだそうとする——つまり読者は、ポアロと同じ盗品リストを手渡され、その「ちぐはぐさ」を一緒に眺める位置に立たされます。

大がかりな舞台装置ではなく、日常のこまやかな違和感の積み重ねで読ませていく。後期クリスティーらしい、地に足のついた運びです。

もうひとつの読みどころは、下宿に集う若者たちの群像劇としての豊かさでしょう。国籍も気質もばらばらな学生たちが肩を寄せ合って暮らす様子は、それ自体が戦後という時代の縮図になっています。

世界中から人が流れ込みはじめたこの時代のロンドンを、一軒の下宿という小さな器のなかに映し取ってみせる手つきは、風俗小説としても読ませます。誰と誰が親しく、誰が浮いているのか。

そうした人間関係の綾が、盗難という不可解な出来事のうしろで静かに脈打っています。

ちなみに題名はマザーグースの一節から採られていますが、物語のなかでのその意味は、寮のある通りの名前と同じ響きだという一点にとどまります。歌の文句をなぞる趣向を期待すると、少し肩透かしかもしれません。

本筋はあくまで、人と品物をめぐる地道な観察のほうにあります。だからこそ、派手さに頼らず読ませきる筆の確かさが際立つ、とも言えるでしょう。

大がかりな仕掛けや疾走感を第一に求める読者よりも、小さな手がかりをこつこつ拾い集め、そこからじわりと像を結んでいく過程を愉しみたい読者に向く一冊です。ポアロものをいくつか読んで、この名探偵の引き出しの広さをもっと確かめたくなった頃に手に取ると、これほど地味な題材からこれだけの物語を立ち上げてみせるクリスティーの手際に、あらためて唸らされるはずです。

作品の背景

1955年に発表された本書は、ポアロが活躍する長編シリーズの第26作にあたります。全33作を数えるシリーズのなかでも後期に位置する、円熟の一冊です。

長い作家人生を通じてこの名探偵を書きつづけてきた書き手が、円熟のただなかで、あえて派手さのない小さな題材を選び取っている。そこに本書ならではの味わいがあります。

刊行当時の空気をうかがわせる逸話があります。作家イーヴリン・ウォーは1955年7月18日の日記に、人生の喜びのひとつとして「新しいアガサ・クリスティーの物語」と書きつけました。

その年こそ、本書が世に出た年です。新作が出るたび、それが同時代の読み手にとって暮らしの楽しみに数えられる——そういう位置に、この作家は立っていました。

派手な事件が起こるわけでもない一編が、それでも読む者を惹きつけてやまない理由は、この確かな筆の力にあります。

手に取るなら

現在は早川書房のクリスティー文庫で手軽に読めます(邦題『ヒッコリー・ロードの殺人』、日本語版は2004年の刊行)。米国では Hickory Dickory Death の題でも知られる一作です。

名探偵の観察に静かに身をゆだね、戦後ロンドンの下宿がまとう雑多で生きた空気を味わいたい夜に、ちょうどよい相棒になってくれます。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1955
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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