本物の死体で見つかった。
死者のあやまち
推理作家オリヴァ夫人が仕掛けた「殺人事件ハント」の最中、被害者役の少女が本物の死体に
夏の祭りのために、殺人が「上演」されることになりました。デヴォン州の田舎屋敷を舞台に、招かれた推理作家が筋書きを書いた犯人探しゲーム。
その遊びのなかの死体役が、本物の絞殺死体にすり替わるところから、『死者のあやまち』は動き出します。名探偵エルキュール・ポアロと作家オリヴァー夫人が再び顔を揃える、後期クリスティーの一作です。
物語の入り口
この物語で目を引くのが、探偵の相棒役として現れる推理作家アリアドニ・オリヴァーの存在です。犯罪小説を量産しながら、いざ現実の事件を前にすると理屈より勘に頼って右往左往してしまう——このオリヴァー夫人は、しばしば作者自身の戯画だと語られてきました。
自分の書いた筋書きが、思うようにいかないことに気をもむ作家。その困惑ぶりには、長年フィクションのなかで殺人を組み立ててきた書き手ならではの苦笑がにじみます。
作家が作家を書くという楽屋落ちの味わいが、本作にはたっぷり流れ込んでいます。
物語の舞台は、デヴォン州の川沿いに建つナス・ハウス。屋敷のあるじ夫妻、サー・ジョージとレディ・スタッブズが、村の夏祭り(フェット)の目玉として一風変わった趣向を思いつきます。
来場者が手がかりをたどり、隠された「被害者」を探し当てる犯人探しゲーム、名づけて「殺人事件ハント」。その筋書きを頼まれたのが、招かれたオリヴァー夫人でした。
何週間もかけて綿密に練り上げられた台本は、いよいよ祭り当日に披露されようとしています。
ところが、準備が整うほどに、オリヴァー夫人の胸には得体の知れない不安がふくらんでいきます。誰かがこのゲームに手を加えているのではないか。
楽しい遊びの裏で、何かよくないことが起ころうとしているのではないか。理屈では説明のつかない予感に耐えきれず、彼女は旧友のポアロを屋敷へ呼び寄せます。
祭りのにぎわいのなかでそっと様子をうかがうポアロ。けれども、いくら目を配っても、不安の正体はいっこうに姿を見せません。
そして、その予感は最悪のかたちで的中します。ゲームの死体役を務めていた少女マーリンが、決められた小屋のなかで、本当に絞殺された姿で見つかるのです。
演じられるはずだった死が、そのまま現実の死へと入れ替わっていた。さらにちょうど同じころ、屋敷の女主人レディ・スタッブズ——ハティ夫人が、こつぜんと姿を消してしまう。
晴れやかだった夏祭りは、たちまち出口の見えない事件の現場へと変わっていきます。
読みどころ
本作の面白さは、「作りものの殺人」と「本物の殺人」が、ひとつの祭りのなかで重なり合うところにあります。 参加者たちは筋書きどおりに手がかりを追い、無邪気にゲームを楽しんでいる。
そのすぐ足元で、台本にはないもうひとつの出来事が静かに進んでいた——この二重写しの構図そのものが、読者の足場をやわらかく崩してきます。どこまでが遊びで、どこからが現実なのか。
ポアロと肩を並べて、その境目を手探りすることになるのです。
もうひとつ味わい深いのが、この長編の成立事情です。原型は、1954年にクリスティーが地元教会のステンドグラスの寄付金を集めるために書いた一編の中編でした。
彼女はそれを二年かけて長編へと書き直し、川沿いの屋敷の描写には、自身が愛した別荘の面影をそのまま溶かし込んでいます。祭りの喧噪、木立に囲まれた敷地、そして水辺へと下りていく小道。
物語の隅々に配された風景は、絵空事ではなく、作者が実際に歩き慣れた土地の記憶から立ち上がっています。土地への愛着に支えられた舞台立てだからでしょうか、後期の作品にしては筆の運びが軽やかで、祝祭の空気がいきいきと立ちのぼってきます。
英国の田舎屋敷と夏祭りの気配にひたりながら、じわじわと事件へ引き込まれていく時間を楽しめる読者に、よく似合う一冊です。名探偵の観察に身をあずけ、にぎわいの裏で進んでいた物語がするりと立ち上がる瞬間を待つ——そんな読み方がしっくりくる作品です。
ただ、冒頭から途切れない緊迫感を何より求めて開くと、序盤の祭り気分はいくぶんゆったりと感じられるかもしれません。その助走のぶんだけ、後半の景色が変わる手ごたえは確かなものになります。
作品の背景
ポアロが登場する長編は三十を超え、本作はその後半に位置づけられます。
手に取るなら
日本語では、早川書房のクリスティー文庫、中村妙子の訳で読むことができます。長くクリスティー作品を手がけてきた訳者による落ち着いた訳文が、後期ポアロのくつろいだ語り口をよく伝えてくれます。
舞台のモデルとなった別荘は、いまは川を見下ろす屋敷として一般にも公開されており、物語の情景をそのまま歩いて確かめることもできます。英国のカントリーハウスと夏祭りのざわめきのなかで、名探偵の推理にゆったりと身をゆだねたい方に、後期クリスティーの入り口として、まず手に取ってほしい一作です。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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