ミステリーとしての読みどころ
並んで走りだした、もう一台の列車。その車室の窓越しに、ひとりの男が女性の首を絞めているのが見える——ほんの数秒の光景を、旅の途中の老婦人が目撃してしまいます。
証言する人はいる。けれど、死体はどこにも見つからない。
この一場面のためだけに書かれたと言いたくなるほど鮮烈な幕開けを持つのが、ミス・マープルもの後期を代表する一作『パディントン発4時50分』です。
著者について
著者はアガサ・クリスティー。数多の名探偵を生んだこの作家が、晩年に近い時期のマープルへ託したのが本書でした。
ミス・マープルが登場する長編としては八作目にあたり、老いた探偵が自ら足で動き回るには少々きつくなってきた頃合いの物語です。原書の刊行は1957年。
じつはこの作品、タイトルが定まるまでにずいぶん揺れたことでも知られています。時刻の部分は4時15分から4時30分、4時54分と移り変わり、最終的に4時50分に落ち着きました。
原稿の段階では『4.54 From Paddington』だったといいます。米国では目撃者の老婦人を前面に出した『What Mrs McGillicuddy Saw!(マギリカディ夫人が見たもの)』の題で世に出ました。
題名が二転三転したという逸話そのものが、この作品の入口がいかに強い引力を持っているかを物語っているようです。
物語の入り口
物語は、その入口から一気に読者を連れ去ります。ミス・マープルの旧友マギリカディ夫人が、パディントン発4時50分の列車に揺られていた時のこと。
ふと隣を並走しはじめた別の列車を、彼女は何気なく覗き込みます。ブラインドの上がった車室のなかで、ひとりの男が女の首を絞めている——ちょうどその瞬間を、ガラス一枚を隔てて目撃してしまうのです。
二台の列車はやがて離れ、光景はあっけなく視界から消えます。夫人はただちに通報します。
ところが、鉄道当局も警察も、彼女の話をまるで本気にしてくれません。それも無理はないのかもしれません。
容疑者もいない、ほかに見た者もいない、そして肝心の死体も見つからないのですから。証言だけが宙に浮いたまま、事件は起こらなかったことにされかけます。
ただひとり、親友の言葉を疑わなかったのがミス・マープルでした。彼女は動く車内から目撃された状況を落ち着いて解きほぐし、地理と鉄道の時刻表を突き合わせて、「もし死体が線路の外へ落とされたとすれば、それはここしかない」という一点を割り出します。
そして自ら現地へ乗り込む代わりに、有能きわまる家政婦ルーシー・アイルズバロウを、その一帯に建つクラッケンソープ家の屋敷ラザフォード・ホールへと送り込むのです。半信半疑の周囲を尻目に、老婦人の推理だけを頼りに捜索が始まっていく——読者はこの序盤で、たった一つの証言を信じるか信じないかの境界線上に立たされることになります。
冒頭の目撃シーンの、映像を見せられているような切れ味は際立っています。窓の向こうという手の届かない場所で起きた、いわば動く密室めいた事件。
それが、地図と時刻表を頼りにした静かな推理へと橋渡しされていく前半の運びは、何度たどっても惚れ惚れするほど滑らかです。手がかりになるのは大がかりな物証ではなく、二台の列車の速度と位置関係、そして線路沿いの地形といった、誰の前にも等しく置かれた条件だけ。
その日常的な材料から、老婦人が一点を静かに指し示していく過程には、名探偵の推理に身を委ねる愉しみが素直に詰まっています。
読みどころ
そして本作最大の発明は、ルーシー・アイルズバロウという探偵助手の造形にあります。 オックスフォードで数学を修めながら、あえて家政婦という仕事を選んだ才媛。
彼女が屋敷に住み込んで家事をこなしつつ、その裏で捜索を進めていく。マープル本人が思うように動けなくなった年齢に達したからこそ、この若く有能な代理の目と足が要る——シリーズに新しい呼吸を吹き込むための、じつに巧みな装置になっています。
癖の強いクラッケンソープ家の面々と、物おじしないルーシーとのやりとりも、読んでいて楽しいところです。
物理的な密室や込み入った図面のトリックよりも、人物の配置と状況の妙で読ませる謎解きが好きな方には、まっすぐおすすめできます。列車ミステリの古典的な名場面を一度は味わっておきたい、という向きにもうってつけです。
逆に、派手な仕掛けやスピード感のある展開を第一に求めると、じっくりと状況を積み上げていく前半の呼吸はいくらか悠長に感じられるかもしれません。とはいえ、その落ち着いた運びこそがマープルという探偵の持ち味でもあります。
手に取るなら
手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、中村妙子訳で読めます。ミス・マープルものの長編としては中盤以降にあたる一作ですが、シリーズを追ってきた読者はもちろん、これがマープル初読という方が最初に開く一冊としてもまったく問題ありません。
並走する列車という忘れがたい一場面から、ぜひこの後期の名作に触れてみてください。