ミステリーとしての読みどころ
獄中で病を得て世を去った母が、たった一人の娘に、短い一行を書き残していました。あの罪を犯してなどいない——と。
その紙片だけを頼りに、とうに幕を閉じたはずの事件が、もう一度そっと開かれます。『五匹の子豚』は、16年も昔の毒殺事件を、当時その場に居合わせた五人の記憶だけで組み立て直そうとする一作です。
物証はなく、現場も失われ、確かめられるものは人の語りだけ。手がかりの多くは時間の底に沈んでしまっている。
それでもなお真相にたどり着けるのか。本作はその問いに、正面から答えてみせます。
著者について
作者はアガサ・クリスティー。名探偵ポアロが登場する長編のひとつで、シリーズでも脂の乗った中期の一冊にあたります。
1942年にまず米国で刊行され、そのときの題は『Murder in Retrospect』——過ぎ去った時間をふり返る殺人、という含みの原題でした。この呼び名がそのまま示すとおり、本作はクリスティーが「記憶」と「時間」というものに強く惹かれていた時期の産物です。
派手な事件性で押すのではなく、遠くなった夏の奥に真実を探しにいく趣向。作者みずから代表作に挙げ、後年まで「隠れた傑作」として語り継がれてきた一冊で、証人の言葉をじっと吟味し、その行間を読むポアロの手腕がもっとも冴えるとも評されます。
物語の入り口
物語は、ポアロのもとを若い女性が訪ねてくるところから静かに動き出します。娘の名はカーラ。
彼女の母キャロライン・クレイルは、16年前、高名な画家だった夫エイミアス・クレイルを毒殺した罪で有罪となり、そのまま獄中で病を得て亡くなっていました。事件は当時さんざんに報じられ、法廷での決着もとうについている。
世間から見れば、いまさら蒸し返す余地などどこにもありません。ところが母は、娘に宛てた最後の手紙に、はっきりとこう書き残していたのです——あの人を手にかけてなどいない、と。
決着したはずの事件と、たった一行の否認。娘が抱えたその食い違いだけが、物語を動かす最初の一押しになります。
世間がとうに閉ざした扉を、母のわずかな肉筆がもう一度こじ開けようとするのです。
その一行を胸に、カーラはポアロへ過去の再調査を持ちかけます。けれど、彼が引き受けることになる条件は過酷です。
事件から16年。屋敷にあの日の空気はもう残っておらず、物的な手がかりは風化し、立ち返るべき現場も失われています。
ポアロが頼れるのは、あの夏の一日をともに過ごした五人の関係者——それぞれの胸の奥にしまわれた、16年ぶんの埃をかぶった記憶だけです。
そこでポアロが持ち出すのが、あの童謡でした。「五匹の子豚」の一節になぞらえて、彼は五人を一人ずつ訪ね歩いていきます。
市場へ行った子豚、家に残った子豚——歌の文句に人物を重ねながら、同じ夏の日をめぐる五通りの語りを、順に聞き集めていくのです。誰もが同じ一日を語っているはずなのに、話し手が替わるたび、その日の風景は少しずつ表情を変えていく。
読者はポアロのすぐ隣で、ひとつの場面を何度も別の角度から眺め直すことになります。過去だけを見つめる捜査が、これほど張り詰めるものかと思わせる立ち上がりです。
読みどころ
読みどころは、これが謎解きミステリのもっとも純度の高い形のひとつだということです。 手元にあるのは人間の記憶という、およそ当てにならない素材ばかり。
物的な証拠が一切使えない盤面で、それでも論理だけで過去へ分け入っていく——探偵小説が本来そなえている「言葉と理屈だけで真実に届く」という信頼を、本作はごまかしなしに体現しています。五つの証言が少しずつずれながら同じ一日を描き直していく、その構成そのものが、ひとつの大きなパズルとして組み上がっているのです。
証言を並べ、行間を測り、椅子にゆったり腰かけたまま思考だけで進む——足跡を計り煙草の吸殻を拾う探偵ではなく、その頭脳ひとつで真相へ迫るポアロの魅力が、まっすぐに味わえるのも本作の美点です。抑制のきいた筆致と、事件の底に流れる哀しみのトーンが、謎解きの切れ味とひとつに溶け合っている。
クリスティーがとりわけ愛したと伝わるのも頷ける仕上がりです。
派手な事件やアクションで畳みかけるタイプではなく、語りと心理を丹念に積み上げていく物語ですから、めまぐるしい展開を第一に求める読者には、その静けさが少し悠長に映るかもしれません。逆に、証言だけで組み上げる構築の美しさや、過ぎた事件を掘り返す回想型の捜査に心惹かれる読者、そしてクリスティーの中でも情感の深い一作に浸りたい読者には、ためらいなく薦められます。
読み終えたあと、しばらく黙って余韻に沈み込みたくなる、そんな夜にこそ寄り添う物語です。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の山本やよい訳が読みやすく、入手もたやすいはずです。ポアロの登場する長編は数多くありますが、本作はその中でも作者みずから代表作に数えた一冊。
ポアロものをひととおり知る読者には見逃せない到達点であり、はじめてクリスティーの謎解きに触れる読者にとっても、この作家の底力を過不足なく伝えてくれる入り口になってくれます。