ミステリーとしての読みどころ
「ねえジェーン、うちの書斎に死体があるのよ」——電話一本で親友を叩き起こす、この一言から物語は動き出します。ありえない死体を、これ以上ないほど古典的な絵のなかに据えてみせる。
アガサ・クリスティーがわざと紋切り型に踏み込んで書いた、確信犯の一作です。
著者について
クリスティーは、この作品を書くにあたって奇妙な縛りを自らに課しました。「書斎の死体」というのは、探偵小説がさんざん使い古してきたクリシェそのもの。
作者はそのことを序文でみずから認めたうえで、あえてその手垢のついた絵柄に正面から挑んでいます。使い古された絵をわざわざ選び、それでもなお読者を唸らせてみせる——プロット職人としての自負がなければ立てられない企てです。
タイトルからしてお茶目な内輪ネタで、クリスティーは以前の作品のなかで、登場人物である女流作家アリアドニ・オリヴァに「『書斎の死体』という犯罪小説を書いた」と語らせていました。その架空の題名を、今度は本物の長編の看板に掲げてしまったわけです。
作中には探偵小説好きの少年が顔を出し、クリスティーやドロシー・L・セイヤーズのサイン本を自慢してみせる場面まである。作者が自分自身をそっと作中に忍び込ませる、めったにない遊び心も効いています。
本作は、全12作を数えるミス・マープル長編の第2作にあたります。老嬢の名探偵が、いよいよその観察眼の切れ味を見せはじめる時期の一編です。
朝の七時。バントリー大佐の屋敷ゴシントン・ホールで、夫妻は書斎に見知らぬ若い女の死体を見つけて仰天します。
金髪の女は夜会服のまま——銀のスパンコールをちりばめたドレス姿で、暖炉前のラグに倒れている。派手な化粧が頬に流れて滲んでいるものの、いったい誰なのか、どうやってこの部屋に入り込んだのか、まるで見当がつきません。
町では名士で通っている大佐の書斎に、身元も知れぬ女の死体。この取り合わせがまず呼び込むのは、殺人そのものの恐怖よりも、格好のうわさの種です。
人の口に戸は立てられず、大佐夫妻はたちまち好奇と当てこすりの視線に囲まれ、四面楚歌の格好へ追い込まれていきます。
窮地の親友のために腰を上げるのが、バントリー夫人。「ねえジェーン、うちの書斎に死体があるのよ」と、あの一本の電話でミス・マープルを呼び寄せます。
田舎の穏やかな朝を破ったこの騒動は、こうして小柄な老嬢のもとへ持ち込まれることになりました。舞台はやがて、静かな村のゴシントン・ホールから、海辺の避暑地に建つ華やかなリゾートホテルへと広がっていく。
社交と行楽でにぎわう明るい場所に、さまざまな立場の人々の思惑がからみ、容疑者になりうる顔ぶれはぐんと膨らみます。事件には警察のほかにも幾人もの捜査役が関わり、その数はほとんど容疑者の数に匹敵するほど。
人が絶えず行き交うにぎやかな舞台のなかで、読者は目立たない老婦人の隣に立ち、彼女と同じ目線で、人々の身ぶりや噂話のひとつひとつをそっと眺めていくことになります。
読みどころ
この作品の妙味は、舞台をとことん紋切り型に振り切ることで、転がっている死体ひとつを最大限に「ありえないもの」へと際立たせる設計にあります。 場所は探偵小説のお約束どおりの書斎、死体は絵に描いたような金髪の美女。
すべてを型どおりに整えたうえで、クリスティーはその一点だけを鮮やかに浮かび上がらせてみせます。ミス・マープルは腕力も権威も持たない小柄な老婦人ですが、目立たないからこそ誰にも警戒されず、人の心の内側を静かに覗き込める。
女の直感がもっとも冴えわたる場面のひとつと評される本作は、事件簿というより、上質な人間観察の書として読めます。
そのマープルの推理を支えるのが、「この人は、あの村のあの娘とそっくり」という独特の照合術です。長らく暮らしてきた田舎の村で見聞きしてきた小さな諍いや裏切りを物差しに、彼女は都会の華やかな社交場で起きた事件をも読み解いていく。
ゴシントン・ホールと避暑地のホテルという、一見かけ離れた二つの世界を、人間の本性という一本の糸で平然と結んでみせるのです。派手な立ち回りは何ひとつありません。
それでいて、老婦人が身のまわりの些事を並べ替えていくうちに、いつのまにか事件の輪郭がくっきりと立ち上がってくる。この静かな手際こそ、マープルものの醍醐味です。
華々しい物理トリックや大がかりな仕掛けを期待して開くと、その控えめな筆致は少し地味に映るかもしれません。逆に、閉じた村社会のさざめきや、人が人をどう見るかという機微をゆっくり味わいたい読者には、これ以上ない一冊です。
ミス・マープルという名探偵に初めて触れる人にとっても、その持ち味がまっすぐ伝わる入り口になります。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、山本やよい訳が読みやすくおすすめです。文章のリズムが軽やかで、現代の読者でもつまずくところがありません。
マープルものの長編としては第2作にあたり、シリーズの世界へ足を踏み入れる一冊としても、古典的な絵柄に古典的でない工夫を凝らしたクリスティーの職人芸を味わう一冊としても、過不足のない選択と言えます。