なぜそこにいるのかも謎。
書斎の死体
「ねえジェーン、うちの書斎に死体があるのよ」――ありえない死体を、最も古典的な絵で見せる中期マープル
「ねえジェーン、うちの書斎に死体があるのよ」——電話一本で親友を叩き起こす、この一言から物語は動き出します。ありえない死体を、これ以上ないほど古典的な絵のなかに据えてみせる。
アガサ・クリスティーがわざと紋切り型に踏み込んで書いた、確信犯の一作です。
物語の入り口
朝の七時。バントリー大佐の屋敷ゴシントン・ホールで、夫妻は書斎に見知らぬ若い女の死体を見つけて仰天します。
金髪の女は夜会服のまま——銀のスパンコールをちりばめたドレス姿で、暖炉前のラグに倒れている。派手な化粧が頬に流れて滲んでいるものの、いったい誰なのか、どうやってこの部屋に入り込んだのか、まるで見当がつきません。
町では名士で通っている大佐の書斎に、身元も知れぬ女の死体。この取り合わせがまず呼び込むのは、殺人そのものの恐怖よりも、格好のうわさの種です。
人の口に戸は立てられず、大佐夫妻はたちまち好奇と当てこすりの視線に囲まれ、四面楚歌の格好へ追い込まれていきます。
窮地の親友のために腰を上げるのが、バントリー夫人。「ねえジェーン、うちの書斎に死体があるのよ」と、あの一本の電話でミス・マープルを呼び寄せます。
田舎の穏やかな朝を破ったこの騒動は、こうして小柄な老嬢のもとへ持ち込まれることになりました。舞台はやがて、静かな村のゴシントン・ホールから、海辺の避暑地に建つ華やかなリゾートホテルへと広がっていく。
社交と行楽でにぎわう明るい場所に、さまざまな立場の人々の思惑がからみ、容疑者になりうる顔ぶれはぐんと膨らみます。事件には警察のほかにも幾人もの捜査役が関わり、その数はほとんど容疑者の数に匹敵するほど。
人が絶えず行き交うにぎやかな舞台のなかで、読者は目立たない老婦人の隣に立ち、彼女と同じ目線で、人々の身ぶりや噂話のひとつひとつをそっと眺めていくことになります。
読みどころ
この作品の妙味は、舞台をとことん紋切り型に振り切ることで、転がっている死体ひとつを最大限に「ありえないもの」へと際立たせる設計にあります。 場所は探偵小説のお約束どおりの書斎、死体は絵に描いたような金髪の美女。
すべてを型どおりに整えたうえで、クリスティーはその一点だけを鮮やかに浮かび上がらせてみせます。ミス・マープルは腕力も権威も持たない小柄な老婦人ですが、目立たないからこそ誰にも警戒されず、人の心の内側を静かに覗き込める。
女の直感がもっとも冴えわたる場面のひとつと評される本作は、事件簿というより、上質な人間観察の書として読めます。
そのマープルの推理を支えるのが、「この人は、あの村のあの娘とそっくり」という独特の照合術です。長らく暮らしてきた田舎の村で見聞きしてきた小さな諍いや裏切りを物差しに、彼女は都会の華やかな社交場で起きた事件をも読み解いていく。
ゴシントン・ホールと避暑地のホテルという、一見かけ離れた二つの世界を、人間の本性という一本の糸で平然と結んでみせるのです。派手な立ち回りは何ひとつありません。
それでいて、老婦人が身のまわりの些事を並べ替えていくうちに、いつのまにか事件の輪郭がくっきりと立ち上がってくる。この静かな手際こそ、マープルものの醍醐味です。
華々しい物理トリックや大がかりな仕掛けを期待して開くと、その控えめな筆致は少し地味に映るかもしれません。逆に、閉じた村社会のさざめきや、人が人をどう見るかという機微をゆっくり味わいたい読者には、これ以上ない一冊です。
ミス・マープルという名探偵に初めて触れる人にとっても、その持ち味がまっすぐ伝わる入り口になります。
作品の背景
クリスティーは、この作品を書くにあたって奇妙な縛りを自らに課しました。「書斎の死体」というのは、探偵小説がさんざん使い古してきたクリシェそのもの。
作者はそのことを序文でみずから認めたうえで、あえてその手垢のついた絵柄に正面から挑んでいます。使い古された絵をわざわざ選び、それでもなお読者を唸らせてみせる——プロット職人としての自負がなければ立てられない企てです。
タイトルからしてお茶目な内輪ネタで、クリスティーは以前の作品のなかで、登場人物である女流作家アリアドニ・オリヴァに「『書斎の死体』という犯罪小説を書いた」と語らせていました。その架空の題名を、今度は本物の長編の看板に掲げてしまったわけです。
作中には探偵小説好きの少年が顔を出し、クリスティーやドロシー・L・セイヤーズのサイン本を自慢してみせる場面まである。作者が自分自身をそっと作中に忍び込ませる、めったにない遊び心も効いています。
本作は、全12作を数えるミス・マープル長編の第2作にあたります。老嬢の名探偵が、いよいよその観察眼の切れ味を見せはじめる時期の一編です。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、山本やよい訳が読みやすくおすすめです。文章のリズムが軽やかで、現代の読者でもつまずくところがありません。
マープルものの長編としては第2作にあたり、シリーズの世界へ足を踏み入れる一冊としても、古典的な絵柄に古典的でない工夫を凝らしたクリスティーの職人芸を味わう一冊としても、過不足のない選択と言えます。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
アガサ・クリスティーをもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本
この本が登場する特集
アガサ・クリスティーおすすめ、最初の一冊の選び方 ―ポアロ・マープル・ノンシリーズ、タイプ別にどれから読むか
「ミステリの女王」クリスティーは作品が多すぎて迷いがち。ポアロ・マープル・ノンシリーズの3系統から、あなたに合う最初の一冊を案内します。
人生経験が謎を解くおばあちゃん探偵たち ―マープルから木曜殺人クラブまで、高齢探偵ミステリ13選
派手なアクションはなくとも、長い人生で培った観察眼が真実を見抜く。マープルから木曜殺人クラブまで、円熟の名探偵たちを紹介します。
ミス・マープルを読む順番 ―全12長編+短編集の刊行順一覧と、最初の一冊・最後の一冊の決まり
ミス・マープルの長編は全12作。刊行順の一覧と、『牧師館の殺人』から入って『スリーピング・マーダー』で終える理由、続けて読むべき2作の組み合わせを、仕掛けに触れずに案内します。