ついに人が死んだ。
動く指
英国の小村に降りそそぐ匿名の脅迫状、女主人の自殺。クリスティ自身が偏愛した「村の悪意」
静かな英国の村に、差出人のわからない一通の手紙が舞い込みます。悪意だけを丁寧に紙に包んだような、名指しの中傷。
『動く指』は、そのたった一枚から村じゅうの人の心がほどけ、隣人同士が疑いに染まっていくさまを描いたアガサ・クリスティーの一篇です。凝った物理トリックではなく、人の口さがなさが引き起こす崩れをじっと見つめた作品で、クリスティー自身が、自作のなかでも気に入りの一冊に数えたことで知られています。
物語の入り口
ミス・マープルが探偵役をつとめるシリーズの一編ですが、本作はそのなかでも少し変わった立ち位置にあります。物語のほとんどは、事故の療養で村へ越してきた青年ジェリー・バートンの目を通して語られていくのです。
このジェリーは、クリスティーの書いた男性の語り手のなかでも指折りの出来と評されてきた語り手です。名探偵が舞台に上がるのを待つあいだ、読者は気のいいこの青年の隣に腰かけ、村の空気をゆっくり吸うことになります。
飛行機事故の療養のため、ジェリー・バートンは妹ジョアンナとともにロンドンを離れ、デヴォンの小村リムストックへ移り住みます。都会の喧騒から遠く、穏やかな田舎暮らしが始まる――はずでした。
ところが越してきて間もなく、二人のもとに一通の匿名の手紙が届きます。「お前たちは兄妹ではなく愛人同士だろう」。
署名はなく、ただ醜い当てこすりだけが並んでいる。はじめは質の悪い悪戯として片づけようとした二人でしたが、やがて事情が違うことに気づきます。
同じような毒のある手紙――poison-pen letters――が、村じゅうの住人に無差別にばらまかれていたのです。牧師の家にも、医者の家にも、店を営む人のもとにも。
根も葉もない噂、身に覚えのない告発、名指しの陰口。手紙が配られるたびに、それまで穏やかに見えていた者同士のあいだに小さな亀裂が走り、村は少しずつ疑心暗鬼に覆われていきます。
のどかだったはずの日々に、じっとりとした緊張が忍び込む。ついきのうまで気軽に挨拶を交わしていた相手の顔さえ、どこか探るように見てしまう。
あの手紙を書いているのは誰なのか。あの人ではないか、いや、あの人こそ――。
そんな囁きが家々をめぐるうち、事態はいよいよ笑って済ませられないところへ進みます。手紙を受け取ったひとりの名士の夫人が、服毒して亡くなっているのが見つかるのです。
紙の上の悪意でしかなかったはずのものが、ここで初めて、取り返しのつかない現実の重さを帯びはじめます。
この作品の勝負どころは、精巧な仕掛けではなく、村に住む人々の心のなかにあります。派手なトリックはほとんど姿を見せません。
代わりに読者の前へ差し出されるのは、誰がどんな言葉に傷つき、誰が誰を疑い、その囁きの底に何が沈んでいるのか――という、人の内面の見取り図です。
読みどころ
手がかりは、村の噂話や何気ない仕草のなかに、最初からそっと置かれています。 名探偵ミス・マープルが物語に登場するのは、じつは終盤のわずかな場面に限られています。
捜査の前面に立つのは、あくまで語り手ジェリーと、村人たちの口の端に上る言葉。マープルは表舞台に躍り出るのではなく、若い二人の探偵役に静かに知恵を授ける指南役として、遅れて姿を見せます。
老婦人がひとこと口を開くそのときまで、匿名の手紙という英国的でじっとりした悪意が、軽やかでユーモラスな語り口とともに描かれていくのが本作の呼吸です。ジェリーとジョアンナ兄妹の弾んだ会話だけでも、頁は気持ちよく進み、読む手はなかなか止まりません。
こんな人におすすめ
大掛かりな機械仕掛けや華々しい不可能状況を求めて開くと、静かな村の会話が続く前半はいくらかゆっくりに感じるかもしれません。けれども、村の空気と人の心理でじわじわ読ませる謎解きが好きな読者にとっては、これ以上ないほど誂え向きの一冊です。
読み終えたあと、村の何気ない一日がまるで違って見えてくる。そんな後味を味わいたい夜にこそ似合う物語です。
作品の背景
『動く指』という題は、クリスティーが敬愛したフィッツジェラルド訳『ルバイヤート』の一節に由来しています。1942年に発表された本作を、クリスティーはのちに、歳月を経て読み返してもなお色あせない自作の一つに挙げました。
何年も後に自分の書いたものを読み返すのは作家にとって試練で、時の流れに耐えられない作品もあれば耐える作品もある――そう述べたうえで、この一冊を後者の側に数えたのです。作者自身のそんな自負が、地味に見える題材の奥に確かな手応えがあることを教えてくれます。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、高橋豊訳が親しみやすい一冊です。ミス・マープルものといえば、彼女の暮らすセント・メアリ・ミード村を舞台にした作品がよく知られていますが、本作はその村を離れた異色作にあたります。
『書斎の死体』や『鏡は横にひび割れて』でマープルの語り口を楽しんだあと、もう一歩シリーズを深掘りしたい向きに、静かにお薦めできる一作です。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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