黄金期英国古典 1972
父が母を撃ったのか、
母が父を撃ったのか。
『象は忘れない』アガサ・クリスティー

書評

象は忘れない

古い悲劇を「象たち」の記憶からゆっくり浮かび上がらせる、回想型ミステリの到達点

象は忘れない 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1972年 · 邦訳 2004年
目次

十数年前、ある夫妻が崖のそばで一挺の銃を間にして倒れて死んでいた。父が母を撃ったのか、母が父を撃ったのか――決着のつかないまま歳月の底に埋もれていたその問いが、思いがけない形で現在へ呼び戻されます。

アガサ・クリスティーが最後に書き上げたポアロ長編は、そんな古い悲劇の再調査から静かに立ち上がる、回想型のミステリです。派手な事件が次々に起こるわけではありません。

ここで動いていくのは、人の記憶という、もっとも頼りなく、もっとも消えにくいものです。

クリスティーには、事件からかなりの年月が過ぎたあとで真相へさかのぼる、「回想の殺人」とでも呼ぶべき一群の作品があります。目の前で起きた事件を追うのではなく、遠い過去に沈んだ出来事を、残された人々の証言だけを頼りに組み直していく――そういう形式です。

本書はその系譜に連なる一冊であり、しかも執筆順ではポアロが登場する長編の掉尾を飾る作品でもあります。もはや作家として何かを証明する必要のなくなった老巨匠が、派手な仕掛けよりも、人の記憶と歳月そのものを主題に据えて綴った。

そんな趣の漂う、晩年の到達点です。派手なトリックで読者を出し抜こうとするより、時間に埋もれたものをそっと掘り起こしてみせる。

その落ち着いた構えこそが、長いキャリアの果てにたどり着いた境地を感じさせます。

相棒役をつとめるのは、推理作家のオリヴァー夫人。ポアロの旧知であり、事件のたびに引っぱり出されてはにぎやかに立ち回る、シリーズおなじみの顔ぶれのひとりです。

今回、物語の口火を切るのもこの人でした。

物語の入り口

物語は、文学者たちの集う昼食会から始まります。オリヴァー夫人が、見知らぬバートン=コックス夫人から声をかけられ、いささか不躾な頼みごとを持ちかけられるのです。

オリヴァー夫人には名付け子がいます。シリヤ・レイヴンズクロフトという若い女性で、バートン=コックス夫人の息子デズモンドと婚約している。

ついては、と夫人は切り出します。シリヤの両親が十数年前に起こした事件について、本当のところを調べてほしい、と。

その事件というのが、ひどく重いものでした。シリヤの父と母は、ある日、崖の近くで一挺の銃を間にして倒れて死んでいた。

父が母を撃ったのか、それとも母が父を撃ったのか。当時は決着のつかないまま、事件は歳月の底に沈んでいたのです。

婚約者の母親から不意に突きつけられたこの問いを、オリヴァー夫人は当惑しながらも捨て置けず、旧知のポアロに相談を持ちかけます。

ここから二人が頼りにするのが、「象のように記憶のよい人々」です。かつてこの一家に仕えた乳母や家庭教師、近くに暮らしていた友人――事件を覚えているはずの人々を、ポアロとオリヴァー夫人は一人ずつ訪ね歩いていきます。

象は忘れない。けれど人の記憶は薄れ、食い違い、思い違いが混じり込む。

集めた証言のかけらを丹念に並べ替えながら、二人は霞んだ過去の輪郭を少しずつ描き起こそうとします。読者もまた、その聞き取りの旅に肩を並べ、遠い出来事の断片がつながっていく手応えを共に味わう位置に立たされます。

読みどころ

本書の主役は、事件そのものよりも、忘れられた過去を掘り起こしていく道行きのほうにあります。 崖のそばの死という出来事に、密室や派手な物理トリックはありません。

惹きつけられるのはむしろ、薄れかけた証言を一片ずつ拾い集め、食い違いの奥へ手を伸ばしていく、その静かな過程です。歳月に磨かれた人間関係の機微を、晩年のクリスティーが落ち着いた筆致でゆっくりと解きほぐしていく。

にぎやかさの代わりに、読み終えてからじわりと効いてくる余韻があります。

回想型という形式そのものの味わいも、この作品の見どころです。何年も前の出来事を語る人々は、それぞれに記憶をかかえ、それぞれの角度から同じ過去を眺めています。

誰かの言葉が別の誰かの言葉と噛み合わない。そのずれ自体が、物語を前へ進める力になっていく。

過ぎ去った時間を相手にするからこそ生まれる、独特の静かな緊張感が、最後まで途切れずに続きます。しかも語り手はポアロとオリヴァー夫人。

理詰めで沈着なポアロと、思いつきで飛び回るオリヴァー夫人の呼吸のずれが、重くなりがちな主題にほどよい風通しを与えてくれます。

ですから、めまぐるしい事件の連続や、鮮やかな物理トリックの切れ味を第一に求める読者には、この作品は少し地味に映るかもしれません。逆に、名探偵の落ち着いた足取りに身をあずけ、古い記憶の底から何かがゆっくりと浮かび上がってくる時間そのものを味わいたい読者には、これ以上ないほど心地よい一冊でしょう。

急がず、静けさごと楽しめる夜にこそ似合います。

手に取るなら

日本語では、中村能三訳の早川書房クリスティー文庫で読めます。ポアロとオリヴァー夫人という気心の知れたコンビが並んで古い謎に向かう、回想型ミステリの上質な到達点として、安心して手に取れる一冊です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1972
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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