頼れるのは記憶だけ。
スリーピング・マーダー
「眠れる殺人を起こすな」――18年前の殺人を、若妻のデジャヴから掘り起こすマープル最終作
初めて訪れたはずの家の、階段の数を知っている。壁紙の柄を、庭の小道の曲がり方を、なぜか体が覚えている。
若い女性が新しい暮らしを始めようとしたその家で、過去のほうが先に彼女を待ち構えていた――そんな不穏な既視感から、静かに幕が上がります。ミス・マープルが挑む、最後の事件です。
物語の入り口
物語の主役は、ニュージーランドから英国へ渡ってきた若妻グウェンダ・リードです。夫より先に新居を探しに来た彼女は、海辺の町でヴィクトリア朝風の一軒の家に出会い、そこで新しい生活を始めます。
ところが、越してきて間もなく、奇妙なことが起こりはじめる。家を今風に手直ししようとするたびに、彼女はなぜか、その家がもともとどうであったかを言い当ててしまうのです。
塞ごうとした場所に、かつて扉があったこと。変えようとした造りが、昔のままだったこと。
初めて住むはずの家の過去を、彼女の手はすでに知っている。そして階段を上るたび、理由のわからない恐怖が背筋を這い上がってきます。
その既視感が決定的な形をとるのは、ロンドンの劇場でのことでした。観ていた芝居の、終幕近くのある台詞。
それを耳にした瞬間、忘れ去っていた幼い日の光景が一気に噴き出します。「ヘレン」という名の女性。
そして、その女性が殺される場面。十八年ものあいだ沈黙していた一つの死が、若い女性の記憶のなかで目を覚ましてしまうのです。
おびえたグウェンダは、村の事情に通じた老婦人ミス・マープルに相談を持ちかけます。こうして二人は、とうに現場も物証も失われた過去の殺人へと足を踏み入れていくことになります。
本書の妙味は、掘り返すべき「現場」がもう存在しないところにあります。十八年前の事件には、封じられた記憶と、人々の色褪せた証言しか残っていない。
血痕も足跡も、当時のままの部屋も、とうに時間に洗い流されている。残されているのは、それぞれの胸のうちで少しずつ形を変えてしまった思い出だけです。
その頼りない断片を突き合わせ、食い違いを見つけ、少しずつ過去の輪郭を組み直していく――マープルが得意とする、記憶と人間観察だけを頼りにした推理が、ここでは全編を貫く方法そのものになっています。物理的な密室や派手な不可能状況に頼らず、人の語ることのずれから真実を浮かび上がらせていく手つきは、後年のコールド・ケースものの遠い先祖といってよい完成度です。
過ぎ去った時間そのものを相手取る謎解き、と言い換えてもいいかもしれません。
読みどころ
もう一つの緊張は、マープルが繰り返す警告から生まれます。 眠っている殺人を、起こしてはならない。
過去を掘り返すその行為そのものが、静かに眠っていた何かを再び呼び覚ましかねない――老婦人の口から何度も告げられるこの警句が、穏やかな田園の空気の底に、ひやりとした冷たさを差し込み続けます。真相へ近づこうとする若い夫妻の好奇心と、それを案じるマープルの慎重さ。
そのあいだで宙ぶらりんになった時間が、読み手をじりじりと先へ引っ張っていきます。
長編としては最後の事件にあたりますが、舞台となる時代設定はまだ古く、晩年の老いた姿ではなく、村の事情通として矍鑠と立ち回るマープルに再会できます。グウェンダの夫ジャイルズの行動力と、老婦人の内省的なまなざしとの対比も心地よく、若い世代の勢いと老いた知恵が手を携えて真相へ迫っていく構図には、長く続いたシリーズを締めくくるにふさわしい温かさがあります。
こんな人におすすめ
派手な仕掛けよりも、静かに積み上がる不穏さと、記憶をめぐる謎解きの手ざわりを味わいたい読者に、まっすぐ薦められる一作です。逆に、冒頭から事件が続けざまに炸裂するスピード感を求める向きには、序盤のじっくりとした立ち上がりがゆっくりに感じられるかもしれません。
けれどその静けさこそが、眠っていたものが目を覚ます瞬間の落差を際立たせています。
作品の背景
『スリーピング・マーダー』は、アガサ・クリスティーが自らの死を見据えて金庫に眠らせていた一作です。第二次大戦下のロンドン、空襲で命を落とすかもしれない作家は、二冊の特別な原稿を銀行の貸金庫にしまい込みました。
片方は名探偵ポアロの幕引きとなる『カーテン』。もう片方が、老婦人探偵の最後の物語であるこの本でした。
作者はそうすることで、自分がこの世を去ったあとも、二人の名探偵にそれぞれ最後の言葉を語らせようとしたのです。実際に世に出たのは一九七六年、作者の死を見届けるかのような刊行でした。
書かれてから読まれるまでに、三十年あまりの沈黙が横たわっていることになります。
手に取るなら
いま手に取るなら、ハヤカワのクリスティー文庫、綾川梓訳で気軽に読めます。読みやすい訳文で、長い物語のあいだも息切れせずに最後まで運んでくれます。
マープル作品をひととおり追ってきた方の締めくくりの一冊としても、これが初めての一冊としても、安心してひらける静かで美しい幕引きです。金庫のなかで長い眠りについていた一作を、いまこうして読めることの静かな贅沢も、あわせて味わってみてください。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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