黄金期英国古典 1975
五つの殺人に関わった
「X」が滞在客の中に。
『カーテン』アガサ・クリスティー

書評

カーテン

ポアロ最後の事件。スタイルズ・コートで「X」と対峙する、シリーズ通読者にこそ届く終幕作

カーテン 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1975年 · 邦訳 2011年
目次

一篇の小説が、三十年以上ものあいだ銀行の金庫に封じられていた——そう聞くだけで、背筋のあたりがざわつきます。『カーテン』は、名探偵エルキュール・ポアロが登場する最後の事件。

物語の幕が上がる場所は、スタイルズ荘です。ポアロがその名を世に知らしめた最初の事件の舞台であり、長いシリーズはここで、静かに円環を閉じることになります。

物語の入り口

物語は、ヘイスティングズ大尉が懐かしいスタイルズ荘の門をくぐるところから動き出します。彼をそこへ呼び寄せたのは、旧友のポアロ。

かつて颯爽と事件を解いてみせたあの名探偵は、いまや関節炎に体の自由を奪われ、思うように動くこともままなりません。それでも頭脳の切れ味だけは、以前と少しも変わっていない。

老いた探偵はヘイスティングズに、自分の目となり耳となってほしいと頼みます。身動きのとれない自分に代わって、この屋敷で起きていることを観察し、逐一報告してほしい、と。

そしてポアロは、旧友に途方もないことを打ち明けます。過去に起きた五件の殺人——たがいに何のつながりもなさそうな、ばらばらの事件。

だがその陰には、いずれにも関わった一人の人物が潜んでいる。ポアロはその人物を「X」と呼びます。

Xの正体を、彼はすでに突き止めている。にもかかわらず、ヘイスティングズにはその名を明かそうとしません。

そしてなにより恐ろしいのは、そのXが、いまこのスタイルズ荘に集う滞在客のなかにいる、という事実でした。

屋敷にはさまざまな顔ぶれがそろっています。ヘイスティングズの娘ジュディス、鳥類学者のノートン、フランクリン博士とその妻、付き添いの看護師、ラトレル大佐夫妻、ボイド・キャリントン。

穏やかに見えるこの誰かが、五度の死に関わってきた人物なのだ——ポアロはそう告げ、Xがふたたび牙を剥こうとしている、差し迫った凶行を防がねばならない、と続けます。名前も顔も特定できないまま、いつどこで起きるとも知れない殺意を食い止めようとする。

読者はヘイスティングズの肩ごしに、和やかな屋敷のテーブルを見渡しながら、この顔ぶれのどこかに死が同席しているという落ち着かなさを、彼とともに味わうことになります。

本作の緊張は、情報の落差から生まれます。ポアロはXが誰かを知っている。

読者もヘイスティングズも知らない。この隔たりそのものが、ページをめくる手を急かすのです。

いつもの少しばかり早合点な善人であるヘイスティングズの語りに寄り添っていると、何かがおかしい、何かを見落としている、という焦りがじわじわと募っていきます。名探偵とその相棒という黄金の取り合わせが、原点の屋敷でもう一度顔をそろえる。

その懐かしさと、そこに漂う不穏さが分かちがたく同居しているところに、この一篇ならではの手ざわりがあります。

読みどころ

長いシリーズに付き合ってきた人ほど、スタイルズ荘という舞台の選び方に胸を打たれるはずです。 ポアロとヘイスティングズが初めて出会った屋敷で、二人がふたたび並ぶ。

その円環の閉じ方には、一作ごとに探偵と過ごしてきた読者の時間が、そっくりそのまま効いてきます。だからこそ本作は、ポアロの事件をいくつか読み重ねてきた人に手渡したい一冊なのです。

そのぶん、これが初めて触れるクリスティーという方には、少しばかりもったいない一冊かもしれません。本作の震えるような感触は、ポアロという探偵と過ごしてきた時間があってこそ、いっそう深まるものだからです。

まずは彼が最初に事件と向き合った『スタイルズ荘の怪事件』から入り、いくつかの事件をともにしてから本作に戻ってくる。その順序を守った読者にこそ、この幕引きは最も静かに、最も深く届きます。

逆に、シリーズを長く追いかけてきた人にとっては、これ以上ふさわしい締めくくりはそうそう見つかりません。

作品の背景

アガサ・クリスティーがこの原稿を書き上げたのは、1940年代、戦時下のロンドンでした。空襲で原稿が失われることを恐れ、また自分の身に万一のことがあっても、愛すべき名探偵にふさわしい幕引きだけは残しておきたい——そんな願いから、彼女はこの一篇を書き終えたまま銀行の金庫に預け、三十年以上にわたって眠らせ続けます。

封が解かれたのは1975年、作家自身の死のちょうど前年でした。反響は、フィクションの登場人物としては前代未聞のものになります。

刊行の年、ニューヨーク・タイムズが一面にポアロの死亡記事を掲げたのです。新聞の紙面が、一人の架空の探偵の死を悼む。

長い歳月をかけて熟成された一篇が世に出た瞬間の、その特別な重みを物語る挿話です。本作は、ポアロが挑む三十三の事件の、まぎれもない掉尾を飾ります。

手に取るなら

現在、本作は早川書房のクリスティー文庫で手に取ることができます。ポアロが挑んだ数々の事件の、いちばん最後にとっておく価値のある終幕です。

読み終えたあと、しばらく何も手につかなくなる——その覚悟だけは、しておいてよいかもしれません。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1975
邦訳刊行年
2011
ISBN-13
9784151310331
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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