ミステリーとしての読みどころ
名門女子寄宿学校の華やいだ新学期に、中東の政変と消えた宝石の影が忍び込む――アガサ・クリスティーの『鳩のなかの猫』は、そんな不釣り合いな二つの世界を一冊のなかで並走させる、ちょっと変わった手ざわりのミステリです。少女たちの箱庭と、国境を越えた陰謀。
まったく別種の物語が、いったいどこで交わるのか。その一点に読者の関心を吊るしたまま、静かに幕が開きます。
著者について
作者はもはや説明のいらない巨匠、アガサ・クリスティー。本作は1959年に発表された後期の長編で、名探偵エルキュール・ポアロが登場するシリーズも終盤にさしかかった時期の一冊にあたります。
円熟の域に入ったころの作品らしく、派手な仕掛けで押すというより、舞台設定の妙と人物の観察眼で読ませるタイプ。物語の根を中東に置いた構図には、旅を愛したクリスティー自身が各地で得た着想が色濃くにじんでいて、遠い異国の熱気を英国の学園へ運び込んでみせる手つきが、いかにも彼女らしいところです。
名探偵の切れ味だけに頼らず、人が集い、ざわめき、疑いあう「場」そのものを描く力量が、この一冊にはたっぷりと注がれています。
物語の入り口
物語はまず、中東の小国ラマットで火を噴いた革命から始まります。政変のどさくさにまぎれて、王家に伝わる莫大な宝石がふっと消え失せる――華やかな学園ものを期待して開いた読者は、この物騒な幕開けにいささか面食らうかもしれません。
ところが場面はほどなく英国へ移り、名門女子寄宿学校メドウバンク校の、生徒も教師も親たちも入り乱れる晴れやかな新学期の風景へと切り替わります。校長ブルストロード女史のもとに集う人々の造形は生き生きとしていて、しばらくは上質な学園小説を読んでいるような心地よさすらあります。
けれど、遠いラマットの影は、確かにこの学校へ忍び寄っている。制服の少女たちが行き交う廊下、真新しいスポーツ館、名門の看板を守ろうとする大人たち――その隅々に、読者は「この二つの筋は、いつ、どこで交わるのか」という予感を嗅ぎ取りながらページを繰ることになります。
そしてその静かな緊張が、ある夜にぷつりと破られる。人けの絶えた深夜のスポーツ館に灯がともり、そこで体育教師のスプリンガー先生が、至近距離から心臓を撃ち抜かれて倒れているのが見つかるのです。
何ごともなかったはずの寄宿学校の日常に、音もなく亀裂が走る瞬間。学園ののどかな光と、忍び寄る暴力の翳りとが、ここで一気に重なりあいます。
名探偵ポアロが姿を見せるのは、実は物語も三分の二を過ぎたあたり。それまでは特定の主役を立てず、学校に集う人々を代わる代わる映していく群像劇として進みます。
読者は探偵の視点に守られないまま、生徒や教師の誰かのそばに立たされ、じわじわと濃くなっていく不穏を一緒に呼吸することになる。誰を信じ、どこを警戒すればいいのか、手がかりを配ってくれる案内役がなかなか現れない。
この「探偵不在の宙ぶらりんな時間」の長さこそ、本作ならではの味わいです。
読みどころ
魅力の核は、スパイスリラーと寄宿学校ミステリという水と油の取り合わせを、破綻なく一冊に溶かし込んだ構成の妙にあります。 国際謀略のスケールと、女子校という閉じた箱庭の親密さ。
ふつうなら噛み合わないはずの二つが、ページを追うごとに互いへ近づいていく。その布置の按配をゆっくり味わうのが、この作品のいちばんの醍醐味です。
加えて、脇を固める人物たちの活写も見逃せません。校長以下、教師陣も生徒たちも、それぞれに一癖あって印象に残る。
誰かが何かを隠しているような気配が学園のあちこちに漂い、その気配を一人ひとりの表情や物腰から読み取っていく時間そのものが楽しい。閉じられた共同体に外から不穏な力が押し寄せる、というシチュエーションが好きな読者なら、この箱庭のざわめきだけでも十分に元が取れるはずです。
一方で、精緻な物理トリックや密室の切れ味を第一に求める読者には、やや肩透かしに感じられるかもしれません。本作の重心は、鮮やかな一撃よりも、二つの世界を並べて見せる構図と、そこに配された人々の観察のほうにあります。
逆に言えば、「いつものクリスティーとは少し毛色の違う一冊が読みたい」「変わった舞台のミステリにときめく」という方には、まさに誂え向き。ポアロものを順に追ってきた人にとっても、シリーズの意外な引き出しに出会える一冊です。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の橋本福夫訳で読めます。長い年月を経てなお版を重ねる定番の一冊で、初めての読者にも安心して薦められる訳文です。
後期クリスティーの巧者ぶりを、肩の力を抜いた佳品の形で堪能できる仕上がり。名探偵の推理に身を任せる愉しみと、ひと味違う学園の空気。
その両方を一度に味わいたい夜に、そっと開いてみてほしい作品です。数あるポアロものの中でも、その舞台の意外さゆえに忘れがたい余韻を残してくれるはずです。