ミステリーとしての読みどころ
静かに整えられた家庭の内側に、一通の空の封筒から不穏が忍び込んでくる——ヘレン・マクロイ『悪意の夜』は、そんな身近な場所から立ちのぼる疑惑を描いた、サスペンス色の濃い謎解きミステリです。主人公は、夫を喪ったばかりの未亡人。
探偵役をつとめるのは、精神科医の名探偵ベイジル・ウィリング博士です。大きな事件の号砲で幕が上がるのではなく、ごく身近な人物への小さな疑いがじわじわと膨らんでいく、その息苦しさに読みどころがあります。
著者について
著者のヘレン・マクロイは、1904年にニューヨークで生まれたアメリカの作家です。1923年にフランスへ渡ってソルボンヌ大学に学び、在学中から美術評論家や新聞記者として筆を執りはじめ、その後は十年近くをヨーロッパで過ごしました。
帰国後の1938年、長編『死の舞踏』で作家デビュー。この一作で生み出されたのが、以後シリーズを牽引していく探偵役、精神科医ベイジル・ウィリング博士でした。
マクロイの歩みは、ミステリ史のなかでも節目の多いものでした。1946年に作家ブレット・ハリデイと結婚し(のちに離婚)、1950年には女性として初めてアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長に就任します。
その功績は長く語り継がれ、1990年にはMWAのグランドマスター賞を受けました。『暗い鏡の中に』『幽霊の2/3』『殺す者と殺される者』といった長編、短編集『歌うダイアモンド』などで知られる書き手です。
本作『悪意の夜』は、そのウィリング博士シリーズのうち、長らく訳されずにいた最後の長編にあたります。原書の刊行は1955年。
それが2016年になってようやく創元推理文庫から訳され、日本の読者も手に取れるようになりました。
物語の入り口
物語は、崖からの転落事故で夫を喪ったアリスのもとから動きはじめます。悲しみの残る家で、彼女は遺された品々を少しずつ片づけていきます。
その手がふと止まったのは、書斎で一通の封筒を見つけたときでした。中身は入っていない、空の封筒。
けれど表には、ミス・ラッシュという女性の名がはっきりと書き記されています。夫が遺したものの中から出てきた、聞き覚えのない女性の名前。
それが何を意味するのか、アリスには見当もつきません。
不安の芽を心の隅にわだかまらせたまま、日常はそのまま続いていくかに見えました。ところがそこへ、息子のマルコムが一人の女性を伴って帰宅します。
連れてきたのは、目を惹く美しい女性。そして、その人の名はラッシュ。
あの封筒に書かれていた、まさにその名前でした。ただの偶然と片づけるには、あまりに具合が悪い。
母の胸のうちで、封筒の記憶と目の前の女性とが、否応なく結びついていきます。
彼女はいったい何者なのか。息子に近づいたのには、どんな目的があるのか。
そして——夫の死と、この女性とのあいだには、何かつながりがあるのか。問いは増えるばかりで、答えはどこにも見当たりません。
表向きは穏やかに保たれた家庭のなかで、疑いだけが静かに濃くなっていく。読者は、確かな証拠を握れないまま不安を募らせるアリスのすぐ隣に立たされ、彼女と同じ居心地の悪さを分け持つことになります。
何ひとつ起きていないのに、何かが起きそうな気配だけが満ちていく。その張り詰めた空気が続いたのち、ついに一つの殺人が物語を貫きます。
読みどころ
この作品の緊張は、事件そのものよりも「疑いの居場所」から生まれてきます。 見知らぬ土地で起こる大事件ではなく、家族の食卓や来客のふるまいといった、逃げ場のない身近な場面にこそ疑惑が忍び込む。
だからこそ息が詰まります。マクロイは登場人物の心理を丹念に掘り下げる作風で知られ、本作でも、確信の持てない不安がどのように人の内側を蝕んでいくかを、腰を据えて描いていきます。
読者は、疑うことの後ろめたさと、疑わずにはいられない切実さのあいだで揺れることになるでしょう。
一方で本作は、雰囲気だけで押し切るサスペンスではありません。迫真の緊張をたっぷり味わわせたうえで、最後には名探偵ベイジル・ウィリング博士が筋道を立てて謎を解く、れっきとした謎解きミステリでもあります。
精神科医という探偵の肩書きは飾りではありません。人の心の動きを読むその視点が、事件を照らす手がかりになっていくのです。
ひたひたと迫るサスペンスと、論理で決着をつける本格の骨格。その二つが一冊のなかに同居しているところが、この作品の持ち味になっています。
こんな人におすすめ
相性で言えば、冒頭から派手な謎解きが次々に繰り出される展開を求める読者には、立ち上がりが静かに感じられるかもしれません。本作の魅力は、事件の多さやトリックの奇抜さではなく、身近な人を疑ってしまう心の揺れと、それがゆっくり張り詰めていく過程の側にあります。
反対に、静かな不穏がひたひたと満ちていく空気を味わえる読者、人の心理の綾を丁寧に追う物語が好きな読者、そして黄金期のミステリらしい端正な謎解きの手ざわりを楽しみたい読者には、じっくり向き合える一冊になるはずです。
手に取るなら
入手は創元推理文庫版で、巻末には佳多山大地氏による解説が付いています。長らく訳されずにいたウィリング博士シリーズの最後の長編が、こうして日本語で読めるようになった意義は小さくありません。
マクロイの筆が冴える一作として、そして精神科医の名探偵が活躍する黄金期アメリカのミステリの佳品として、静かな夜にじっくり付き合うのにふさわしい作品です。