ミステリーとしての読みどころ
妻を空港で出迎え、二人そろって我が家へ帰り着く。それだけならごくありふれた帰宅の場面のはずが、寝室の扉を開けた瞬間に景色は暗転します。
そこで待っていたのは、留守のあいだ親切心から部屋の鍵を渡した、作家志望の若い娘の亡骸でした。身に覚えのない疑いを一身に浴びた男が、失われかけた名誉をその手で取り戻そうともがく——『女郎蜘蛛』は、穏やかな日常が一枚の扉を境に反転する、緊張感のあるサスペンスです。
著者について
作者のパトリック・クェンティンは、一人の作家の名前ではありません。リチャード・ウィルスン・ウェッブ(1901年英国生まれ)とヒュー・キャリンガム・ウィーラー(1912年英国生まれ)という二人の書き手が、共作のために掲げた合作ペンネームです。
ふたりは『迷走パズル』『俳優パズル』『人形パズル』といった作品を送り出し、緻密な仕掛けと読ませる筆致で黄金期のミステリを支えてきました。二つの頭脳が一つの名前で書く——その隙のない構成の妙は、本作でも隅々まで行き渡っています。
『女郎蜘蛛』は、演劇プロデューサーのピーター・ダルースと妻アイリスが登場するダルース夫妻シリーズの、その最終作にあたります。原著が発表されたのは1952年。
日本では創元推理文庫の60周年を記念する新訳として2019年に届けられ、訳は白須清美、巻末には川出正樹の解説が添えられています。評価も高く、『2015本格ミステリ・ベスト10』の海外ランキングでは第4位に選ばれました。
「サスペンスと謎解きの妙にうなる掛け値なしの傑作」——版元がそう掲げるのも大げさには聞こえない一冊です。
物語が動き出すのは、妻アイリスが母親の静養に付き添い、ジャマイカへと発ったところからです。一人残されたピーターは、日々の仕事のかたわら、作家志望の若い娘ナニーと知り合います。
つましい暮らしのなかで書くことに打ち込む彼女に、ピーターはささやかな同情を寄せました。自分のアパートメントは日中どうせ誰もいない、だからそこを執筆の場に使えばいい。
そう言って、彼は気軽に部屋の鍵を手渡します。善意から出た、ほんの親切のつもりでした。
数週間が流れ、アイリスが帰ってくる日がやってきます。ピーターは空港へ妻を迎えに行き、久しぶりに二人そろって玄関をくぐる。
ところが、あろうことか、寝室にはナニーの遺体があったのです。留守中に若い娘を部屋へ通していた男。
事情を知らない目にどう映るかは、考えるまでもありません。ピーターは身に覚えのない「浮気者」の烙印を押され、肩身の狭い思いをすることになります。
親切のつもりでした、では、もう誰も納得してくれないのです。
潔白を信じてもらえないまま宙に浮いたような状況で、ピーターが選んだのは、ただ耐えてやり過ごすことではありませんでした。失われかけた名誉をその手で取り戻すため、彼はナニーの周辺を自ら調べはじめます。
読者は、追い詰められた一人の男の肩越しに、事件のかたちが少しずつ見えてくる過程を一緒にたどっていくことになります。座って眺める謎ではなく、当事者として抱え込まされる謎。
そこがこの物語の入り口の、いちばんの緊張です。
読みどころ
この作品の推進力は、謎を解いていく楽しさと、追い詰められていく息苦しさとを、同時に味わわせてくれるところにあります。 ごく普通に日々を送っていた一人の男が、たった一つの親切をきっかけに窮地へ落ちていく。
その理不尽さと、そこから自力で這い上がろうとする姿が、読む者の呼吸を浅くします。事件の真相を論理で手繰り寄せていく謎解きの骨格を持ちながら、主人公と一緒に胸を締めつけられるサスペンスとしても読める。
「サスペンスと謎解きの妙にうなる」という評は、この二つの快楽が一冊のなかで両立していることを、そのまま言い当てています。
もう一つの読みどころは、これがダルース夫妻シリーズをしめくくる最終作だという位置づけです。演劇プロデューサーのピーターと妻アイリスという顔ぶれが積み重ねてきた物語の、最後の一幕。
黄金期のアメリカ・ミステリが磨き上げた語りの職人芸を、二人の作家の共作ならではの目の詰んだ構成で味わえる、そんな贅沢さもこの一冊にはあります。
どんな読者に向くでしょうか。何気ない日常が足元から崩れていく巻き込まれ型のサスペンスや、じわじわと忍び寄る不穏な空気が好きなら、まっすぐに刺さるはずです。
黄金期ミステリならではの端正な語り口も、この作品の心地よい手ざわりのひとつ。いっぽうで、安楽椅子に腰かけた探偵の推理を静かに味わうような、あくまで穏やかなパズルだけを思い描いていると、ここで前面に出るのが追い詰められた男の必死さである点に、はじめは面食らうかもしれません。
とはいえ、その必死さこそが本作の熱源です。誰かと肩を並べて窮地をくぐり抜けるスリルを楽しめる読者なら、時間を惜しむことなく最後まで読み通せる一冊でしょう。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の60周年記念新訳版がおすすめです。訳者は白須清美。
イネス『霧と雪』やバークリー『服用禁止』などを手がけてきた英米文学翻訳家で、同じクェンティン名義の『迷走パズル』『俳優パズル』『人形パズル』も同氏の訳で読めます。本作でこの作者の呼吸が気に入ったら、同じ作者・同じ訳者の手になるそれらの作品へと読み進めていくのも、きっと楽しいはずです。
一夜の親切がひとりの人生を揺るがしていく物語を、ぜひ当事者の緊張ごと味わってみてください。