黄金期英国古典 1962
毒が殺したのは
狙いと違う女だった。
『鏡は横にひび割れて』アガサ・クリスティー

書評

鏡は横にひび割れて

動機の哀切さ。テニスン詩の一行で全てが説明される後期クリスティ最良のホワイダニット

鏡は横にひび割れて 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1962年 · 邦訳 2003年
目次

静かな村に、映画スターが越してくる。その歓迎パーティで、招かれた地元の婦人が一杯のカクテルを口にした直後に倒れ、そのまま息を引き取ってしまう。

誰の目にも、毒が本当に狙っていたのは屋敷の主である大女優その人だったはず――なのに、なぜ死んだのは彼女ではなかったのか。1962年に発表された『鏡は横にひび割れて』は、この一点だけを手がかりに、村の噂話の底から少しずつ真実が浮かび上がってくる、後期クリスティーを代表する一作です。

物語の入り口

本作は老婦人探偵ミス・マープルが登場する長編の第8作にあたります。編み物をしながら世間話に耳を傾け、いつのまにか事件の核心を言い当ててしまう――そんなマープルの持ち味が、この物語の主題とこれ以上ないほど噛み合っています。

物語の舞台は、シリーズでおなじみの村セント・メアリ・ミード。ただし、以前と同じ穏やかな村ではありません。

周囲には新興住宅地が造成され、見知らぬ顔が増え、村の風景はどんどん様変わりしていきます。時代の波に洗われ、静かに姿を変えていく共同体――その象徴のように、村の旧家ゴシントン・ホールが人手に渡ります。

新しい住人は、ハリウッドからやってきた大女優マリーナ・グレッグ。華やかな噂を引き連れた彼女の登場は、退屈にも見えた村にちょっとした興奮をもたらします。

やがて開かれた歓迎のパーティには、村の人々が招かれ、屋敷の主に会える高揚感で座がにぎわいます。招待客のひとりが、世話好きで話し好きな地元の婦人ヘザー・バドコック。

彼女が女優を前にうれしそうにしゃべっているうちに、事件は起こります。手にしていたカクテルを飲んだ直後、ヘザーは激しい発作に見舞われ、そのまま帰らぬ人となってしまうのです。

混乱するパーティ会場で、誰もが同じ疑問に突き当たります。毒はヘザーではなく、誰か別の人物に向けられていたのではないか――その飲み物は、本来なら別の手に渡るはずのものだったのではないか。

ここから読者は、「なぜ標的ではないはずの婦人が死んだのか」という、動機の側から立ち上がる謎の前に立たされます。犯人捜しでも凶器の謎でもなく、人の心の奥にわだかまる理由そのものが、この物語の中心に据えられているのです。

事件に挑むマープルのやり方も、本作では際立っています。多くの者が物証を追い、アリバイや手口を確かめようとする傍らで、彼女はまったく別の方角を見ています。

人が何を思い、どんな感情を抱えて生きてきたか――事件を人間性の側から読み解こうとするのです。村で長い年月を過ごし、無数の人生を間近に眺めてきた老婦人だからこそ届く視線が、断片的な噂話をゆっくりと一本の線へ束ねていきます。

読みどころ

題名が示すのは、この物語が謎解きの技巧だけでなく、深い哀しみの上に立っていることです。 『鏡は横にひび割れて』という一句は、テニスンの詩「シャロットの女」の一節に由来します。

ミステリの題としては珍しく、詩的で余韻の残るこの言葉が、事件の空気そのものに静かに寄り添ってくる。派手な驚きで読者を殴りつける類の作品ではありません。

むしろ、真相にたどり着いたとき、それまで散らばっていた村人の噂話やなにげない場面が、思いがけない重みを帯びて立ち返ってくる。その静かな衝撃が長く記憶に残るのです。

作品の評価は今日にいたるまで高く、1980年にはエリザベス・テイラーらを迎えて映画化され、『クリスタル殺人事件』の邦題で親しまれました。

こんな人におすすめ

謎解きの鮮やかさと同じくらい、登場人物の心の陰影を味わいたい読者に、まっすぐ薦められる一冊です。マープルという探偵に初めて出会う人にも、長くシリーズを追ってきた人にも、それぞれの角度で満たされるものがあります。

事件の外形が地味なぶん、なにげない会話や人物の一言が後になって効いてくる仕掛けが多く、腰を据えて村の空気ごと味わうほど手ごたえが増していきます。逆に、スピード感のある展開や大がかりなトリックの応酬を求めて開くと、村の噂話がゆっくり織り上がっていくこの語り口は、少し悠長に感じられるかもしれません。

けれどもその緩やかさこそ、真相が明かされた瞬間の効き目を支える仕掛けにほかなりません。

作品の背景

派手な追跡劇や大仕掛けとは無縁の、村の日常を舞台にした事件でありながら、円熟期の作者が「人が人を殺す理由」をどこまで深く描けるかに挑んだ作品として名高い一冊です。長く書き継がれてきたシリーズの中でも、多くの読者が最良の到達点として挙げる理由が、読み終えるとよくわかります。

手に取るなら

現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、橋本福夫訳で読むことができます。長いシリーズのどこから入っても楽しめる作品ですが、円熟した作者が「動機」という主題を突き詰めた本作は、クリスティーという書き手の底力を知るうえでも格好の一冊です。

読み終えたあと、しばらく本を閉じたまま余韻に浸りたくなる――そんな静かな読書の時間を求める夜に、よく似合う物語です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1962
邦訳刊行年
2003
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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