黄金期英国古典 1926
一九二六年、この本は
読者を二つに割った。
『アクロイド殺し』アガサ・クリスティー

書評

アクロイド殺し

本格ミステリ史を変えた一作。100年経っても読書体験の衝撃が古びない

アクロイド殺し 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1926年 · 邦訳 2003年
目次

ミステリの歴史をたどっていくと、必ずどこかでこの一冊に行き当たります。1926年に世へ出てから百年近く、いまなお「あれは読んだか」と語り継がれ、評論の場に何度も呼び出され続けている稀有な長編です。

刊行の当時から作品をめぐって激しい論争が起こり、その熱がいまだに冷めきっていない。そんな作品は、そう多くありません。

物語の入り口

舞台は英国の田舎町キングズ・アボット。どこにでもありそうな、平穏そのものの村です。

物語の中心にいるのは、村の医師シェパード。彼の目を通して、村の暮らしと人間関係が細やかに映し出されていきます。

おしゃべり好きの姉キャロライン、屋敷に仕える使用人たち、井戸端で交わされる噂話。狭い共同体のなかでは誰もが誰かの事情を知っていて、それでいて肝心なことは巧みに伏せられている。

クリスティが得意とする閉じた村社会の空気が、序盤から濃密に立ち込めます。

その村には、思いがけない客人がいました。第一線を退いて静かに暮らしていた、エルキュール・ポアロです。

畑いじりに精を出す隠居として村に溶け込んでいた名探偵が、ある事件をきっかけに、ふたたびその頭脳を働かせることになります。

事件は、村の資産家ロジャー・アクロイドをめぐって起こります。アクロイドは、ひとりの女性が抱えた重い秘密を知る立場にありました。

彼女が何者かに脅されていたこと、そして自ら命を絶ったことまでを。真相を告げる手紙が、まさに彼の手もとへ届こうとしていた矢先のことでした。

アクロイドは書斎で、椅子に腰かけたまま刺し殺されて見つかります。直後には彼の息子が姿を消し、村には動揺が広がっていく。

息子が手を下したのか。ところが、シェパードとともに調べを進めるポアロの前には、屋敷の家族も使用人も、それぞれに動機や秘密を隠し持っていた事実が、次々と浮かび上がってきます。

誰もが何かを伏せている村で、名探偵は静かに問いを重ねていきます。

読みどころ

この作品を語るうえで外せないのが、刊行当時に巻き起こった大論争です。 「ミステリの本道を踏み外している」という批判と、「ジャンルの可能性を一気に押し広げた」という称賛。

評価は真っ二つに割れ、その議論は長く尾を引きました。百年が経ったいまも、ミステリ史を扱う本を開けば、この作品の名は決まって顔を出します。

後続の作家や批評家が本作を足がかりに新しい発想を練り、語り継いできた。一編の長編が、ジャンルそのものの語彙の一部になってしまった、めったに見られない例です。

影響は評論の内側だけにとどまりませんでした。本作は英国の劇作家マイケル・モートンの手で戯曲『アリバイ』に仕立てられ、1928年、ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で上演されて250回のロングランを記録します。

この舞台化はクリスティ自身に初めての戯曲執筆を促し、やがて作品は映画にもなりました。一冊の小説が、これほど多くの形へ姿を変えて広がっていったこと自体が、当時の反響の大きさを物語っています。

仕掛けの評判だけで残った作品ではなく、村社会を描く筆の確かさもまた、長く読み継がれてきた大きな理由です。

読み始める前に、ひとつだけお願いがあります。予備知識は、できるだけ入れずに本を開いてください。

あらすじやレビューをたどる前に、まず最初の一ページへ。事前の情報が少ないほど、この作品と初めて出会う時間は豊かなものになります。

黄金期英国ミステリの、村を舞台にした端正な謎解きを好む読者であれば、まず間違いなく満たされるはずです。手がかりを丁寧に積み上げていく古典の運びを「ゆっくりだ」と感じる向きには、序盤の歩みがのんびりに映るかもしれません。

それでも、読み終えたあとにこの作品が深く記憶へ刻まれることは、百年ぶんの評価がすでに証明しています。

作品の背景

『アクロイド殺し』は、アガサ・クリスティーが名探偵エルキュール・ポアロを主役に据えたシリーズの、四番目にあたる一作です。書かれたのはクリスティ36歳の年。

すでに『スタイルズ荘の怪事件』『ゴルフ場殺人事件』を送り出してはいたものの、のちに「ミステリの女王」と呼ばれる地位は、まだ先の話でした。本作は、彼女がウィリアム・コリンズ社から刊行した最初の本でもあります。

この版元はいまも形を変えて彼女の作品を世に送り続けており、その長い付き合いの起点がここにありました。作家としての足場が固まりつつあった中期の入り口で、クリスティは英国ミステリ界を騒然とさせる一手を指したのです。

手に取るなら

現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、羽田詩津子訳が読みやすくおすすめです。電子書籍でも手軽に入手でき、思い立ったその日から読み始められます。

ポアロが活躍するシリーズの一作ではありますが、この物語だけを取り出して読んでも、まったく問題ありません。ミステリという分野に少しでも心を惹かれるなら、ほかの本を後回しにしてでも、まずこの一冊から。

そう言える古典です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1926
邦訳刊行年
2003
ISBN-13
9784152101464
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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