読者を二つに割った。
アクロイド殺し
本格ミステリ史を変えた一作。100年経っても読書体験の衝撃が古びない
ミステリの歴史をたどっていくと、必ずどこかでこの一冊に行き当たります。1926年に世へ出てから百年近く、いまなお「あれは読んだか」と語り継がれ、評論の場に何度も呼び出され続けている稀有な長編です。
刊行の当時から作品をめぐって激しい論争が起こり、その熱がいまだに冷めきっていない。そんな作品は、そう多くありません。
物語の入り口
舞台は英国の田舎町キングズ・アボット。どこにでもありそうな、平穏そのものの村です。
物語の中心にいるのは、村の医師シェパード。彼の目を通して、村の暮らしと人間関係が細やかに映し出されていきます。
おしゃべり好きの姉キャロライン、屋敷に仕える使用人たち、井戸端で交わされる噂話。狭い共同体のなかでは誰もが誰かの事情を知っていて、それでいて肝心なことは巧みに伏せられている。
クリスティが得意とする閉じた村社会の空気が、序盤から濃密に立ち込めます。
その村には、思いがけない客人がいました。第一線を退いて静かに暮らしていた、エルキュール・ポアロです。
畑いじりに精を出す隠居として村に溶け込んでいた名探偵が、ある事件をきっかけに、ふたたびその頭脳を働かせることになります。
事件は、村の資産家ロジャー・アクロイドをめぐって起こります。アクロイドは、ひとりの女性が抱えた重い秘密を知る立場にありました。
彼女が何者かに脅されていたこと、そして自ら命を絶ったことまでを。真相を告げる手紙が、まさに彼の手もとへ届こうとしていた矢先のことでした。
アクロイドは書斎で、椅子に腰かけたまま刺し殺されて見つかります。直後には彼の息子が姿を消し、村には動揺が広がっていく。
息子が手を下したのか。ところが、シェパードとともに調べを進めるポアロの前には、屋敷の家族も使用人も、それぞれに動機や秘密を隠し持っていた事実が、次々と浮かび上がってきます。
誰もが何かを伏せている村で、名探偵は静かに問いを重ねていきます。
読みどころ
この作品を語るうえで外せないのが、刊行当時に巻き起こった大論争です。 「ミステリの本道を踏み外している」という批判と、「ジャンルの可能性を一気に押し広げた」という称賛。
評価は真っ二つに割れ、その議論は長く尾を引きました。百年が経ったいまも、ミステリ史を扱う本を開けば、この作品の名は決まって顔を出します。
後続の作家や批評家が本作を足がかりに新しい発想を練り、語り継いできた。一編の長編が、ジャンルそのものの語彙の一部になってしまった、めったに見られない例です。
影響は評論の内側だけにとどまりませんでした。本作は英国の劇作家マイケル・モートンの手で戯曲『アリバイ』に仕立てられ、1928年、ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で上演されて250回のロングランを記録します。
この舞台化はクリスティ自身に初めての戯曲執筆を促し、やがて作品は映画にもなりました。一冊の小説が、これほど多くの形へ姿を変えて広がっていったこと自体が、当時の反響の大きさを物語っています。
仕掛けの評判だけで残った作品ではなく、村社会を描く筆の確かさもまた、長く読み継がれてきた大きな理由です。
読み始める前に、ひとつだけお願いがあります。予備知識は、できるだけ入れずに本を開いてください。
あらすじやレビューをたどる前に、まず最初の一ページへ。事前の情報が少ないほど、この作品と初めて出会う時間は豊かなものになります。
黄金期英国ミステリの、村を舞台にした端正な謎解きを好む読者であれば、まず間違いなく満たされるはずです。手がかりを丁寧に積み上げていく古典の運びを「ゆっくりだ」と感じる向きには、序盤の歩みがのんびりに映るかもしれません。
それでも、読み終えたあとにこの作品が深く記憶へ刻まれることは、百年ぶんの評価がすでに証明しています。
作品の背景
『アクロイド殺し』は、アガサ・クリスティーが名探偵エルキュール・ポアロを主役に据えたシリーズの、四番目にあたる一作です。書かれたのはクリスティ36歳の年。
すでに『スタイルズ荘の怪事件』『ゴルフ場殺人事件』を送り出してはいたものの、のちに「ミステリの女王」と呼ばれる地位は、まだ先の話でした。本作は、彼女がウィリアム・コリンズ社から刊行した最初の本でもあります。
この版元はいまも形を変えて彼女の作品を世に送り続けており、その長い付き合いの起点がここにありました。作家としての足場が固まりつつあった中期の入り口で、クリスティは英国ミステリ界を騒然とさせる一手を指したのです。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、羽田詩津子訳が読みやすくおすすめです。電子書籍でも手軽に入手でき、思い立ったその日から読み始められます。
ポアロが活躍するシリーズの一作ではありますが、この物語だけを取り出して読んでも、まったく問題ありません。ミステリという分野に少しでも心を惹かれるなら、ほかの本を後回しにしてでも、まずこの一冊から。
そう言える古典です。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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