ミステリーとしての読みどころ
ポアロの寝室の戸口に、埃まみれの男がひとり立ち尽くしていました。頭から足の先まで塵をかぶり、げっそりとやつれた顔でこちらを見据えたかと思うと、男はぐらりと揺れて床に倒れ込む。
ほどなくして、その手が一枚の紙に何度も書きつけていたものが目に留まります。数字の「4」。
ただそれだけ。『ビッグ4』は、名探偵ポアロの長編のなかでも、はっきりと毛色の違う一冊です。
読者を待っているのは、世界征服をもくろむ巨大な国際犯罪組織との、大陸をまたいだ対決。シリーズ屈指の異色作が、ここにあります。
著者について
著者は1890年生まれの英国作家アガサ・クリスティー。本書はポアロ長編としては第5作にあたり、英国では1927年1月27日に William Collins & Sons から、米国では同年 Dodd, Mead 社から刊行されました。
純然たる本格ミステリよりも冒険スリラーや国際陰謀ものの色合いが濃い作風は、この作品が背負った特殊な成立経緯と切り離せません。
その事情は、クリスティーの読者のあいだではよく知られています。1926年、彼女は母の死、最初の夫アーチーとの結婚生活の破綻、そして本人の失踪という三重の打撃に見舞われ、新たな長編を一から書き下ろせる状態にありませんでした。
そんな彼女に一つの案を差し出したのが、義弟のキャンベル・クリスティです。1924年に英国誌『The Sketch』へ連載していた12編の連作短編を、長編としてまとめ直してはどうか——。
本書はその提案から生まれた、いわば「長編に編み直された短編連作」なのです。各章が比較的独立したエピソードとして立っているのは、この来歴の名残と言っていいでしょう。
物語の入り口
物語は、先ほどの奇妙な訪問から動き出します。ふいに現れたその男は、いったい何者だったのか。
ショックのせいか、それとも疲労の果てなのか。そして、彼が一枚の紙に取り憑かれたように書きつづけた「4」とは、何を指すのか。
問いだけを残して倒れ込んだ訪問者の符牒を追ううちに、ポアロはやがて途方もない世界へと足を踏み入れていきます。浮かび上がってくるのは、中国の頭脳、米国の富豪、フランスの女性科学者、そして「4号」と呼ばれる英国人——この四人を中核とする、巨大な国際犯罪組織の存在です。
証人を容赦なく葬り、決して正体を見せない悪事の天才たち。彼らを追って、ポアロは相棒ヘイスティングス、そしてジャップ警部とともに大陸へと渡っていきます。
一話ごとに別の事件が持ち上がり、そのつど組織の影がちらつく。読者は、机上の推理劇というより、正体不明の敵の輪郭を一枚ずつ剥がしていく追跡行に、ポアロのすぐ隣から付き合わされることになります。
手がかりを腰を据えて吟味するより先に、次の脅威が扉を叩く。事件の規模も舞台も、通常のポアロものとは桁が違う。
章が改まるたびに新たな脅威が持ち上がり、そのつど敵の周到さと非情さが少しずつ露わになっていく。名探偵が安楽椅子を離れ、生命の危険をくぐりながら「4号」の真実に迫っていく、波瀾に満ちた道行きが本書の骨格です。
読み進めるほどに、こちらもポアロとともに、姿なき四人の輪郭を息をつめて見定めようとしている自分に気づくはずです。
読みどころ
本書は、ポアロを「宿敵と渡り合う探偵」として描こうとした、野心的な実験作です。 シャーロック・ホームズとモリアーティ教授のような好敵手との対決を、クリスティーが彼女なりに試みた一編——そう捉えると、この作品の狙いはくっきり見えてきます。
手がかりを積み上げて一つの真相へ収束させる、いつものフェアプレイ本格とは呼吸がまるで違う。その分、章ごとに趣向を変えて畳みかけてくるスリラーとしての推進力があり、ページをめくる手は止まりにくい作りになっています。
連作短編から編み直されたという成り立ちが、ここではむしろ長所として働いていて、一話読むごとに小さな決着と次への引きが訪れる。長い一本の推理に腰を据えるのとは別種の、テンポよく読み進める面白さがあります。
もっとも、この異色さは正直に伝えておくべきでしょう。緻密な謎解きの完成度という一点では、本書はほかのポアロ長編に一歩を譲ります。
クリスティー自身も出来栄えには思うところがあったと伝わっており、精妙なロジックを期待して開くと、戸惑う瞬間があるかもしれません。むしろこの一冊が輝くのは、ポアロとヘイスティングスの気の置けない掛け合いを楽しみたいとき、あるいは国際陰謀ものの奔放なスケールに身を委ねたいときです。
シリーズを順に追ってきた読者にとっては、巨匠がふと横道に踏み込んだ、忘れがたい寄り道として味わえるはずです。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房クリスティー文庫の中村妙子訳が紙・電子ともに容易に入手できます。ポアロ長編をひととおり揃えて読み進めたい方、シリーズの地図のなかでこの異色作がどこに位置するのかを確かめておきたい方には、コレクションを埋める一冊として過不足なく応えてくれます。
名探偵の推理に静かに身を任せる愉しみとはひと味違う、冒険と陰謀のポアロ。その顔を知っておくだけでも、クリスティーという作家の懐の深さが、いっそう立体的に見えてくるでしょう。