ミステリーとしての読みどころ
豪華寝台列車の一室で、富豪の娘が命を落とす。彼女が身につけていた高名な宝石も、いつのまにか姿を消している。
ロンドンから南仏リヴィエラへと走る青列車を舞台にしたこの一編は、アガサ・クリスティーが手がけたポアロ長編のなかでも、少し変わった来歴を持つ作品です。華やかな舞台立てと、その裏で作者自身が抱えていた重い時期とが、そのまま一冊に折り重なっている。
著者について
アガサ・クリスティーは1890年生まれの英国作家。本作は名探偵ポアロが活躍する長編の第6作にあたり、英国では1928年3月29日に William Collins & Sons から、米国では同年 Dodd, Mead 社から世に出ました。
物語の骨格そのものは新しく生み出されたものではなく、1923年に発表された短編「プリマス行き急行列車」を長編へと膨らませたもの。すでにある素材を大きく作り直す仕事だったわけですが、この改作はクリスティーにとって決して楽な作業ではありませんでした。
執筆の時期が重かったのです。1926年、彼女は母の死と、夫アーチーとの関係の破綻という二つの痛手をほぼ同時に受けています。
夫と別居し、生活のために筆を執らざるをえない状況のなかで、一部はカナリア諸島に滞在しながら書き継がれました。巻頭には「O.F.D.の二人の高名なる会員、カルロッタとピーターに」という献辞が添えられていますが、これは彼女を支えた秘書と愛犬に向けたもので、つらい時期を分かち合った相手への謝意がそこにこめられています。
クリスティー自身は後年、自伝のなかでこの作品を「いつも嫌いだった」と率直に振り返りました。もっとも、当時の批評家たちの受け止めは、必ずしも作者ほど厳しくはなかったようです。
舞台となる「青列車(ル・トラン・ブルー)」は、英仏を結び、南仏リヴィエラの海岸へと客を運ぶ豪華寝台列車です。ニースの社交、海を見下ろす別荘、英国から流れてきた引退貴族、そして新しく財を成した米国の富裕層——世紀の変わり目の華やぎと倦怠が、この一本の列車に乗り合わせています。
そのなかに、米国の富豪を父に持つルース・ケタリングがいました。彼女は高名な宝石を携えて旅をしています。
そして列車が夜を走るあいだに、ルースは殺害されて発見されます。運んでいたはずの高名な宝石も、いつのまにか行方が分からなくなっている。
華やかだった車内の空気は一変し、走りつづける閉じた車両のなかに疑いだけが残される。折よく同じ列車に乗り合わせていたポアロが、この事件の調査を頼まれ、静かに動きはじめる——というのが物語の入り口です。
もう一人、この列車には英国の田舎で暮らしてきたキャサリン・グレイという女性が乗っています。思いがけず資産を相続し、生まれて初めての華やかな旅に出た彼女。
そのまなざしを通して、リヴィエラの世界と、そこに渦巻く人間関係が描かれていきます。事件を追うポアロの側と、外側からこの世界に足を踏み入れたばかりのキャサリンの側と、二つの視点が交わるところに、本作ならではの語り口があります。
読者は、豪奢な車内に身を置きながら、どこか値踏みするようなよそ者の目線も同時に借りて、事件の輪郭が立ち上がっていくのを見守ることになります。
読みどころ
この一冊の面白さは、後年の代表作へと続く「型」が組み上がっていく現場に立ち会えるところにあります。 異国情緒をまとった土地、寝台車という閉じた空間、そこに乗り合わせる上流階級の人々——のちにクリスティーが得意としていくこの組み合わせを、彼女はこの時期に手さぐりで試しています。
列車を舞台にした謎解きの系譜のなかでも早い一編であり、のちの『オリエント急行の殺人』へと連なる道筋の、その入り口にあたる作品と言えます。
もう一つの見どころは、ポアロの相棒として親しまれてきたヘイスティングスが登場しない長編だということ。代わりに前述のキャサリンら、シリーズの常連とは異なる顔ぶれが物語を回していきます。
加えて、のちのシリーズでおなじみとなる従者ジョージや、情報屋ミスター・ゴビーが初めて姿を見せるのも本作。長く読み継ぐ人にとっては、シリーズの部品がひとつずつそろっていく様子を確かめられる一冊でもあります。
華やかな舞台と名探偵の推理に、ゆっくり身を任せたい読者に向く作品です。事件そのものの派手さよりも、階級や国籍の入り混じった車内の空気や、登場人物たちの思惑をじっくり味わうタイプの物語なので、はやい展開を第一に求めると、序盤の運びは少し悠長に感じるかもしれません。
裏を返せば、黄金期の薫りをまとった旅と社交の情景に浸りたい向きには、じゅうぶんに応えてくれる読み心地です。
手に取るなら
現在は早川書房クリスティー文庫の青木久恵訳が流通しており、紙の本でも電子書籍でも手に取りやすい状況です。クリスティーの名高い代表作をひと通り読んだあと、彼女がまだ手さぐりだった過渡期の筆に触れてみたい方、あるいはヘイスティングス抜きのポアロを見てみたい方に、静かにおすすめできる一編です。