黄金期英国古典 1953
「殺されたんでしょう?」
そう言った翌日に死んだ。
『葬儀を終えて』アガサ・クリスティー

書評

葬儀を終えて

「だってあの人、殺されたんでしょう?」――葬儀の席のひと言から動き出す、後期ポアロ屈指の構造美

葬儀を終えて 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1953年 · 邦訳 2004年
目次

「でも、あの人、殺されたんでしょう?」。葬儀を終えたばかりの客間、遺言が読み上げられる厳粛な席で、末の妹がぽつりとこぼしたひと言です。

誰も本気には受け取りませんでした。ところが翌日、その言葉を口にした当人が変わり果てた姿で見つかったとき、なんでもなかったはずのつぶやきが、にわかに不吉な重みを帯びはじめる。

アガサ・クリスティーが円熟の極みで書いた『葬儀を終えて』は、この小さな棘のような一句から静かに動き出す一篇です。

物語の入り口

謎に挑むのは、灰色の脳細胞を誇るエルキュール・ポアロです。舞台となるのは、ヴィクトリア朝の面影を色濃く残す大邸宅エンダビー・ホール。

その当主リチャード・アバネシーが急逝するところから、すべては始まります。葬儀を終え、屋敷の一室で顧問弁護士のもと遺言が読み上げられる。

潤沢な遺産をめぐって、それぞれに事情を抱えた親族が一堂に会します。誰もがリチャードの死を老いの果ての自然なものと受けとめていた、その和やかとも気づまりともつかぬ空気を裂いたのが、末の妹コーラのあのひと言でした。

「でも、あの人、殺されたんでしょう?」。一瞬の沈黙が客間に落ち、けれど誰もそれ以上は取り合わない。

ところが翌日、当のコーラが寝室で、手斧によって惨殺された死体となって発見されるのです。前日の場違いなつぶやきが、こうして初めて背筋の凍る意味を帯びる。

事態を重く見た家族の顧問弁護士エントウィスルは、旧友であるポアロのもとを訪ね、この不穏な連なりを解きほぐしてほしいと頼み込みます。遺言開示の席、その日の昼食、夜の食卓、翌朝に届く報せ——クリスティーが幾度も描いてきた「英国旧家の数日」の手触りが、本作ではとりわけ丹念に書き込まれています。

親族の一人ひとりに過不足なく事情が配られ、それぞれが嘘とも本当ともつかぬ顔で食卓に並ぶ。読者は、うわべは穏やかなその席に着きながら、誰の言葉を信じ、誰の沈黙を疑えばよいのかも分からぬまま、ポアロの傍らで一族の顔色をうかがう位置に立たされることになります。

読みどころ

物語をひとつに束ねているのは、葬儀の席でこぼれ落ちたたった一言が、本当に聞き流してよいものだったのか、という宙づりの問いです。 大きな爆発も、派手な追跡もありません。

あるのは、遺されたひと言と、それを取り巻く人々の証言と仕草だけ。その控えめな材料だけで、これほど張りつめた時間を作り出してしまうところに、後期ポアロならではの構造の美しさがあります。

手がかりはあくまで日常の会話や身振りのなかにあり、大仰な道具立てに頼らない。だからこそ、一族が食卓を囲むなにげない場面のひとつひとつが、読み進むほどに油断のならない意味を帯びていきます。

名探偵に導かれ、家族の一人ひとりを順に見つめ直していく——その手つきに黙って身を委ねる愉しみを、本作は正面から味わわせてくれます。円熟という言葉の意味を、読み手はページの隅々で実感することになるはずです。

謎解きの興味と歩調を合わせるように、「この一族はいったいどんな家なのか」という関心も、静かに読者を先へと引っ張っていきます。財産、体面、古い確執。

旧家という閉じた場に澱のようにたまったものが、ポアロの問いかけを受けるたびに少しずつ輪郭を見せる。人物を眺める楽しみと、謎を追う楽しみとが、まるでひとつの流れのように寄り添っているのです。

静かな心理の探り合いと、英国旧家に漂う独特の空気を、時間をかけてじっくり味わいたい読者にこそ、まっすぐ薦められる一冊です。クリスティーを二〜三冊目に読み進めたい方の入り口としても、ポアロを順に読み通してきた方の一冊としても、期待は裏切りません。

逆に、スピード感のある展開や大がかりな見せ場を第一に求めて開くと、この物語のたたずまいは少しばかり物静かに映るかもしれません。けれども、その落ち着きこそが本作の身上です。

作品の背景

本作はポアロの登場する長編の二十五作目にあたり、原書が世に出たのは1953年です。刊行順では、前年の『マギンティ夫人は死んだ』のすぐ次の一冊です。

興味深いことに、この物語はまず米国で『Funerals are Fatal』の題を与えられ、英国版に二ヶ月先んじて刊行されました。

その後も本作は形を変えて読み継がれています。1963年には映画化されましたが、このときはなぜかポアロがミス・マープルに置き換えられ、クリスティー自身はその改変を快く思わなかったと伝えられます。

より原作に忠実な映像化はずっと後年になってからで、2006年にはデヴィッド・スーシェがポアロを演じたテレビ版が作られました。半世紀を超えて、姿を変えながら人々を惹きつけてきた物語です。

手に取るなら

いま手に取るなら、加島祥造訳の早川クリスティー文庫が定番です。登場人物の階級や気質、微妙な関係の綾が端正に訳し分けられ、英国旧家の空気を損なうことなく読み通せます。

葬儀という古典的な舞台を、クリスティーが最も洗練された形で扱ってみせた、後期ポアロ長編の到達点のひとつと言ってよい作品です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1953
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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