ミステリーとしての読みどころ
朝の紅茶を飲み終えた実業家が、そのまま役員室で息絶える。その上着のポケットからは、なぜか一掴みのライ麦。
『ポケットにライ麦を』は、地名も凶器も童謡も一本の線でつながっていく、見立て殺人の面白さを凝縮したミス・マープルものです。手がかりの配置の鮮やかさで、長く読み継がれてきました。
著者について
作者はアガサ・クリスティー。数えきれない作品を残した巨匠が、この一作を世に問うたのは1953年、作家として脂の乗りきった中期のことでした。
マザーグースに材を取り、クリスマス商戦に向けて刊行された本作は、批評家からも一般の読者からも好意的に迎えられます。年の瀬の「よい一冊」を長らく心待ちにしてきた読者の期待に、過たず応える出来栄えだったのです。
ミス・マープルが探偵役を務めるシリーズの一編でもあり、老嬢の名探偵が真価を発揮する作品として名前の挙がることの多い一冊でもあります。
クリスティーは、古い童謡やわらべ歌を事件の下敷きにする趣向を好んで用いました。誰もが口ずさめるほど親しんだ歌が、一行ごとに不穏な意味を帯びて立ち上がってくる——その落差の妙は、彼女がもっとも得意とした仕掛けのひとつです。
本作はその趣向を、代表作に数えられる水準にまで磨き上げた一編として知られています。
物語の入り口
物語は、投資信託会社の社長レックス・フォーテスキューの急死から動き出します。朝、いつものように紅茶を口にした直後、彼は会社の一室で激しく苦しみ、あっけなく息を引き取る。
検死の結果、体内から検出されたのはイチイの木から採れるアルカロイド「タキシン」でした。そして遺体の上着のポケットには、食卓にのぼるはずもない一掴みのライ麦が残されている。
なぜ、事業家の懐にライ麦が。
奇妙な符合は、それだけにとどまりません。フォーテスキュー家の屋敷は、ユーツリー・ロッジ——「イチイ屋敷」と呼ばれていたのです。
凶器となった毒はイチイに由来し、屋敷の名もまたイチイ。地名と凶器がこだまし合うその手付きに、読者は早くも背筋を撫でられます。
やがてフォーテスキュー家では殺人が続いていきます。そこで浮かび上がるのは、現場に残された小道具が、マザーグースの「6ペンスの歌(Sing a Song of Sixpence)」を一節ずつなぞっているという、ぞっとするような事実です。
古い童謡の一行一行が、屋敷に起きる出来事とひたひたと重なっていく。見立て殺人という趣向のなかでも、地名・凶器・童謡がこれほど一直線に結ばれていく組み立ては、そうそうお目にかかれるものではありません。
そこへ足を運んでくるのが、ミス・マープルです。彼女は名探偵として招かれるのではありません。
かつて自分の家で小間使いを務めていた、気の弱いグラディスという娘の身を案じ、新聞記事をきっかけに自らユーツリー・ロッジへ赴くのです。「あの娘が」という静かな憤りを胸に。
この登場の仕方そのものが、本作の呼吸を決めています。
読みどころ
読みどころは、童謡見立てという古典的な趣向を、これ以上ないほど端正に組み上げてみせた手際にあります。 地名・凶器・童謡が一つに溶け合う構図は、クリスティーが得意とした見立てものの中でも屈指の完成度です。
「6ペンスの歌」の韻律を頭の片隅に置きながら読み進めると、ページの上に仕掛けられた符合の一つ一つが、いっそう鮮やかに立ち上がってきます。
もう一つの見どころは、マープルという探偵の温度です。ここでの彼女を突き動かしているのは、弱い立場の者が理不尽に扱われることへの、静かな怒り。
招かれてもいない事件にわざわざ足を運ぶのは、その怒りが本物だからです。編み物の手を動かしながら事件の芯に迫っていく後半の姿には、シリーズの他作にはない凛とした強さがあります。
名探偵に身をゆだねる愉しみと、その内側にある人間の熱とが、しっかり両立しているのです。事件の見取り図が理知で解かれていく一方で、その解決には人の情がたしかに通っている——この二つの層が重なるところに、本作ならではの読み応えが生まれます。
童謡見立てのミステリーに惹かれる読者、名探偵の推理に静かに寄り添っていきたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。派手なアクションや息もつかせぬスリルを求めて開くと、その端正で落ち着いた運びは物足りなく映るかもしれません。
けれど、ばらばらに見えた細部の符合がやがて一つの絵を結んでいく感触こそ、この作品がいちばん深く報いてくれるところです。腰を据えて手がかりを眺め、名探偵の歩みに付き合う時間を惜しまない読者ほど、その手応えは大きくなります。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、宇野利泰訳で読めます。原書は1953年の刊行。
ミス・マープルが活躍するシリーズの一編ですから、老嬢の名探偵の魅力にまとめて触れたい方にとっても心強い選択になります。マザーグースに材を取った中期の傑作を、まずはこの一作から味わってみてください。