連れ去ったのは母親だという。
造花の蜜
スーパーで見失った息子は無事に見つかった。だが本人によれば、連れ去ろうとした相手は「お父さん」を名乗った。
スーパーで、ほんの一瞬、息子の姿を見失う。子どもを連れて買い物に出た親なら、誰でも一度は経験する、あの数秒です。
小川香奈子は、とっさに誘拐を疑いました。息子の圭太はすぐに見つかってほっとしたものの、あとになって、圭太の口から思いがけないことを聞かされます。
本当に、連れて行かれそうになった。相手は「お父さん」を名乗った、と。
連城三紀彦『造花の蜜』は、この小さな出来事から始まる物語です。2008年に角川春樹事務所から刊行され、『ミステリが読みたい!』2010年版で国内篇の第1位に選ばれました。
物語の入り口
香奈子は、歯科医の夫と離婚して実家に戻っています。息子の圭太は、まだ幼い。
その日、圭太を連れてスーパーに出かけた香奈子は、偶然再会した知人との話に気をとられて、圭太の姿を見失いました。とっさに疑ったのは、誘拐でした。
息子はほどなく見つかります。ところが後日、圭太は母親に告げます。
本当に誘拐されそうになった、と。しかもその相手は、自分を「お父さん」だと名乗ったというのです。
離婚した家庭に届いた、「お父さん」という名乗り。それだけでも、香奈子には十分に不穏な知らせです。
けれども、そのあとはしばらく何事もない日々が続きます。誘拐事件が起きるのは、それからひと月後のことです。
ひと月の静けさを挟むことで、最初の不穏は消えないまま、物語は次の段へ移ります。知人との立ち話に気をとられた数秒の隙と、幼い息子の口から出た「お父さん」という一語。
歯科医の夫と別れて実家に戻った香奈子にとって、どちらも足もとの確かさを揺らす出来事です。
この本については、あらすじも感想も入れずに読むのがいちばんです。理由は簡単で、事件の見え方は一度しか味わえないからです。
先を知らないまま、香奈子の隣に立つ。それがこの物語に向き合ういちばんの形です。
読みどころ
ひとつめは、事件に入るまでの手順の丁寧さです。 六十歳を迎える年の連城三紀彦は、誘拐という題材を、上下二冊の分量で扱いました。
けれども、物語はいきなり身代金の話から始まるわけではありません。歯科医の夫と別れて実家に戻った暮らし、幼い息子を連れた買い物、知人との立ち話。
そうした日々の細部を積み上げたうえで、スーパーでの数秒が置かれます。そして事件そのものは、ひと月の静けさを挟んでからようやく動き出します。
読者は香奈子と同じ速さで、同じだけの情報を手にして進むことになります。香奈子が知らないことは、読者にも知らされません。
その足並みのそろえ方が、上巻の前半を支えています。
もうひとつは、入口の小ささです。スーパーで子どもを見失う数秒。
離婚した家庭にかかる「お父さん」という言葉。どちらも、誰の身にも起こりうる出来事です。
そこから誘拐事件へ向かう道筋が、どこで日常を離れるのか。香奈子の側に立って読むほど、この小さな入口の怖さが効いてきます。
離婚した母親と幼い息子の暮らしに、「お父さん」という一語が投げ込まれる。その一語の重さを、香奈子とともに抱えたまま読み進めることになります。
上下二冊という分量に、身構える読者もいるかもしれません。けれども、スーパーでの数秒と「お父さん」を名乗った相手、その二つだけを手に読み始めれば、その分量は不安ではなく期待に変わるはずです。
香奈子が息子を見失ったのは、ほんの数秒でした。その数秒が、上下二冊の出発点になっています。
作品の背景
『造花の蜜』が単行本として出たのは2008年10月31日、角川春樹事務所からです。著者が六十歳を迎える年に刊行された、誘拐を題材にした長編です。
刊行の翌年、『ミステリが読みたい!』2010年版で国内篇第1位。第9回本格ミステリ大賞の小説部門でも最終候補に残り、有効投票57票のうち13票を集めています。
現行版はハルキ文庫の上下二分冊で、2010年11月に出ています。上巻288ページ、下巻320ページ。
下巻の解説は、脚本家の岡田惠和が書いています。
手に取るなら
現行版はハルキ文庫の上下巻(2010年11月)です。電子版もあります。
上巻288ページ、下巻320ページです。連城三紀彦の後期の長編を読みたい人に向きます。
上下二冊なので、上巻を開くときには下巻も手元に用意しておくと、区切りで待たされずに済みます。誘拐ものを読み慣れている人ほど、あらすじを一切入れずに開いてください。
スーパーで息子を見失う、あの数秒——そこから、始めてみてください。
連城三紀彦について
連城三紀彦は1948年、名古屋市の生まれです。本名は加藤甚吾で、早稲田大学政治経済学部を卒業しています。
短編「変調二人羽織」が第3回幻影城新人賞に入選し、同作が『幻影城』1978年1月号に載って世に出ました。1981年に「戻り川心中」で第34回日本推理作家協会賞(短編部門)、1984年には『宵待草夜情』で第5回吉川英治文学新人賞、『恋文』で第91回直木賞を受けています。
大胆な仕掛けと叙情の濃い文章を一つの作品のなかに同居させる作風で知られ、ミステリの技法を心の機微の描写に生かした恋愛小説でも評価を得ました。直木賞のあとは大衆小説に軸足を移しながら、誘拐ものや心理劇などのミステリも書き続けました。
1987年に得度した真宗大谷派の僧侶でもありました。1996年には『隠れ菊』で柴田錬三郎賞を受けています。
2013年10月に65歳で亡くなり、翌年、日本ミステリー文学大賞特別賞が贈られました。
書誌情報
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