戦後昭和国内 2008
福島にあるはずのナイフが、
西表島で女の胸に刺さる。
『完全恋愛』辻真先

書評

完全恋愛

戦時下の温泉地で芽生える少年の恋が、長い人生と謎を追う読書の入口になります。

完全恋愛 表紙画像
辻真先 小学館(小学館文庫)2008年
目次

戦中から今日まで、一人の男が誰にも明かさずに抱えてきた恋があります。辻真先が牧薩次の名義で発表した『完全恋愛』は、その恋を物語の芯に据えた作品です。

舞台は第二次大戦末期の福島の温泉地に始まり、昭和43年、昭和62年へと、40年余りの歳月をまたいでいく。その間に起きる三つの不可解な事件を、この秘められた恋が一本に結んでいます。

恋愛小説と本格ミステリの両方を、一つの物語のなかで引き受けた大作です。

物語の入り口

第二次大戦末期、福島県の温泉地。東京からやってきた少年・本庄究は、同じく戦火を逃れてこの村に暮らしていた画家の娘、小仏朋音に強い恋心を抱きます。

疎開先の山あいの村で、都会から来た少年と、画家の娘が出会う。物語の最初の頁に置かれているのは、事件ではなく、この一つの恋です。

戦時下の暮らしの不安と、少年の胸のうちの熱。その二つが同じ村の景色のなかに並んでいます。

やがて戦争が終わり、村には駐留軍がやってきます。そしてこの地で、アメリカ兵が殺されるという事件が起きる。

ところが、現場からは凶器が忽然と消えてしまいます。終戦直後の混乱した空気のなかで起きた、最初の不可解な事件です。

物語はそこから時を飛び越えます。昭和43年、福島の山村にあるはずのナイフが、時空を超え、瞬時にして西表島にいる女性の胸に突き刺さる。

遠く隔たった二つの土地を、一本の刃物が一瞬で結んでしまうという、ありえない出来事です。さらに昭和62年には、東京にいるはずの犯人が、福島にも現れる。

一人の人物が、二つの場所に同時に存在してしまうのです。凶器が消え、刃物が海を越え、人が二か所に現れる。

時代ごとに姿を変えながら、いずれも常識では起こりえない出来事が並んでいきます。

終戦直後、高度成長のただなか、そして昭和の終わり近く。三つの時代に一つずつ置かれた謎を結ぶのは、画壇の巨匠となった男の、秘められた恋でした。

巨匠の名は柳楽糺。戦中から今日まで、その恋を胸の中だけに抱えてきた男で、少年の頃には本庄究と名乗っていました。

戦時下の疎開先から昭和の終わり近くまで——一人の男が生きた長い年月を、読者はそのまま一緒に歩いていくことになります。

読みどころ

題名が示すのは、完全犯罪の「犯罪」を「恋愛」に差し替えるという発想です。

完全犯罪という言葉は、推理小説のなかで長く使われてきました。この作品では、その言葉の場所に、打ち明けられないまま一人の男が抱え続けた恋が置かれています。

恋愛小説と本格ミステリを足し算で並べるのではなく、一つの恋を軸にして両方を成り立たせようとする構えに、この作品の大きさがあります。一人の少年の想いが、昭和という時代を貫いて続いていく——その持続そのものが、読み手の胸に残ります。

もうひとつは、三つの不可能状況の手ざわりです。消えた凶器、遠い島へ一瞬で届くナイフ、二か所に同時に現れる犯人。

どれも、それだけで一本の推理小説を支えられそうな謎で、それが三つ、異なる時代に置かれています。恋の行方を追っている最中にも、三つの謎は脇へ退かず、それぞれが一本立ちの不可能状況として読み手の前に立ちはだかります。

長い時をたどる大作なので、一つの事件を短い頁で解き切る作品を好む人には、道のりが遠く感じられるかもしれません。けれども、その長さこそが、一人の人生を背負った恋の重みを伝える器になっています。

こんな人におすすめ

大きな時間の流れのなかで人の想いを描く物語が好きな人、不可能状況の謎を正面から楽しみたい人に向いています。恋愛小説と本格ミステリの両方を一度に味わいたい人にも、手応えのある読書になるでしょう。

反対に、軽い気分で短く読み終えたいときには、時の流れの長さが重く感じられるはずです。昭和という時代を生きた一人の男に付き合う覚悟を、少しだけ用意して開くのがよさそうです。

作品の背景

『完全恋愛』が世に出たのは2008年、辻真先の70代半ばのことです。マガジンハウスから牧薩次の名義で刊行され、翌2009年に第9回本格ミステリ大賞の小説部門を受賞しました。

同じ年の「このミステリーがすごい!」と「本格ミステリ・ベスト10」では、ともに第3位に入っています。1972年のデビューから36年を経て、本格の賞を新たに手にした作品ということになります。

手に取るなら

現在手に取るなら、小学館文庫版です。2008年にマガジンハウスから牧薩次の名義で出た単行本が、文庫に収められました。

人知れず続いた一つの恋を、昭和の40年余りにわたって見届ける一作です。

辻真先について

辻真先は1932年、愛知県の生まれです。名古屋大学を卒業して1954年にNHKへ入り、制作進行や演出の現場を経験したのち、『鉄腕アトム』『サザエさん』『デビルマン』『Dr.スランプ アラレちゃん』など、アニメや特撮の脚本家として幅広く活躍しました。

ミステリ作家としては1972年の『仮題・中学殺人事件』でデビューし、1982年に『アリスの国の殺人』で第35回日本推理作家協会賞を、2009年には名前のアナグラムである牧薩次の名義で出した『完全恋愛』で第9回本格ミステリ大賞を受けています。叙述の仕掛けを凝らした実験作から、トラベルミステリやユーモアミステリまで作風は幅広く、2019年には第23回日本ミステリー文学大賞に選ばれました。

2020年、88歳で刊行した『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』は、年末の主要ミステリランキング3誌でそろって国内1位になっています。

書誌情報

出版社
小学館 / 小学館文庫
刊行年
2008
ISBN-13
9784094085952
系譜
戦後昭和国内
受賞歴

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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