脅迫状はぴたりとやんだ。
陰獣
脅迫状の差出人は、謎めいた探偵作家。乱歩を復活させた中編。
脅しがやんだとき、ひとは胸をなでおろしてよいものでしょうか。大富豪と結婚し、幸せに暮らしている女のもとへ、昔捨てた男から執念の脅迫状が届きはじめます。
ところが女の夫が変死体で見つかると、その手紙はぴたりと途絶える。江戸川乱歩『陰獣』は、この途絶から先を読ませる中編です。
差出人の男は、謎めいた探偵作家。1年あまり筆を絶っていた乱歩が、書き手として表舞台に戻ってきた一編でもあります。
物語の入り口
女は、大富豪と結婚し、幸せに暮らしています。物語の出発点にあるのは、満ち足りた現在です。
そこへ、過去が手紙の形でやってきます。差出人は、かつて彼女が捨てた男でした。
いまの幸福を手にしている側が、以前には誰かを置き去りにしていた。その過去が、宛名のついた紙になって戻ってくるわけです。
届くのは、ただの恨み言ではなく、執念の脅迫状です。執念という語には、時間の長さが含まれています。
捨てられた側の男は、そのあいだずっと、彼女のことを忘れていなかった。しかも差出人は、謎めいた探偵作家です。
素性の見えない書き手からの便りが、手の届く日常のなかへ、くり返し差しこまれてくるのです。
幸せな暮らしと、過去からの脅し。その二つが並んだところで、もう一つの出来事が起こります。
女の夫が、変死体で発見されるのです。彼女に幸せな暮らしをもたらしていた当の人物が、ふいにこの世を去ったことになります。
ここで、物語は奇妙な形に折れ曲がります。夫の死のあと、あれほど続いていた脅迫状が、ぴたりとやむのです。
なぜ、このときに止まったのか。手紙が来なくなったという事実は、安堵にも不穏にも読めます。
脅迫、変死、そして沈黙——出来事はこの順に並び、最後の沈黙が、いちばん大きな問いとして残ります。読者は、届かなくなった手紙のあとに広がる静けさの前へ、置き去りにされることになります。
その静けさが何を意味するのかを確かめる手立ては、頁の先にしか用意されていません。
読みどころ
14か月の沈黙を破って差し出されたのは、一晩で通せる分量のなかに緊張を張りつめた犯罪小説です。
中編なので、夜の数時間があれば最後まで読み通せます。そのかわり、紙幅の短さが緊張を保つ側に働いています。
脅迫、変死、途絶という出来事が、短い紙幅のなかで次々と重ねられていく。長い物語なら中だるみが入りこむ余地もありますが、この分量ではそれが許されない。
読み手の集中が途切れる前に、話は先へ進んでいきます。
もうひとつは、題名にまつわる話です。乱歩は「陰獣」という語について、猫のようなけだもの、おとなしく陰気でありながら、秘密めいた怖さを抱えた生きものを思い描いていたと語っています。
ところが発表直後から、この題名は「淫獣」と取り違えられ、性的な意味で受け取られました。新聞の見出しにこの言葉が転用されるたび、乱歩は不快の念を書き残しています。
作者が込めた陰りのある怖さと、世間が読みとった俗な響き——題名のたった一語をめぐって、その二つは発表直後から食い違っていたことになります。
90年以上前に書かれた作品で、言い回しには時代の古さが残ります。いまの感覚で読むと、ところどころ大仰に映るかもしれません。
それでも、脅しがやんだあとの不穏な空気を、息を継がずに最後まで味わいきる体験は、短い紙幅だからこそ成り立つものです。
こんな人におすすめ
この作家を怪奇や幻想の書き手としてだけ知っている人に、犯罪小説の組み立てで勝負した一面を見てほしい作品です。長い物語を読む時間がとれないけれど、濃い一編を通しで味わいたい人にも向いています。
反対に、長い物語にじっくり浸りたい人には、物足りなく感じられるかもしれません。
作品の背景
長編『一寸法師』を書き終えたあと、乱歩は自作への嫌気から筆を折り、放浪に出ました。沈黙は14か月に及びます。
それを破って発表されたのが『陰獣』で、博文館の『新青年』1928年の8月増刊号・9月号・10月号の3回に分けて掲載されました。当時の同誌の編集長は横溝正史で、その後押しを受けての発表です。
この中編で、乱歩は華々しく復帰を果たしました。
受容の面では、2012年版『東西ミステリーベスト100』の国内編で35位に入りました。1928年の発表から84年を経た年の投票で、この位置に入ったことになります。
手に取るなら
いま手に取りやすいのは、角川ホラー文庫『陰獣 江戸川乱歩ベストセレクション(4)』です。2008年刊、208ページで、「蟲」を併録しています。
岩波文庫では『江戸川乱歩作品集Ⅱ』(浜田雄介編、490ページ)に、「一枚の切符」「何者」「黒蜥蜴」「断崖」とともに「謎のゆくえ」の主題でまとめられていますが、こちらは品切れです。脅しがやんだあとに何が始まるのか、その答えは一晩で読み通せる分量のなかに収まっています。
江戸川乱歩について
江戸川乱歩は本名を平井太郎といい、1894年に三重県名張で生まれました。早稲田大学で経済を学んだあと、貿易会社勤めや古本屋などの職を転々とし、1923年、雑誌『新青年』に載った「二銭銅貨」で作家になります。
筆名はエドガー・アラン・ポーをもじったものです。1925年の「D坂の殺人事件」で名探偵明智小五郎を登場させ、1936年からは『怪人二十面相』に始まる少年探偵団シリーズで年少の読者もつかみました。
戦後は評論集『幻影城』などで海外の探偵小説を論じ、1947年に探偵作家クラブ(のちの日本推理作家協会)の初代会長に就任します。1954年には還暦を機に江戸川乱歩賞を設け、雑誌『宝石』の編集にも携わって、後に続く書き手の道を整えました。
1965年に没しています。
書誌情報
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